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迎貧

賓ではなくてね、字を見てそのままである。
言葉遊びの延長でしかないこのノート。

こんな題ではあるが
文字がどうこうこじつけて
「人という字は〜」とか
得意げに話すのはウンザリで

収まりが良い話ってのは、
ご都合合わせの補正の結晶。
用途もわきまえず締まりの良い話でまとめ上げられると非常に不愉快だったりする。

しかも、残念なことに自分にもそういう喋り口調の気がある。


都合よい例え話で話をまとめたりする
不躾なエンディングはやめて頂きたい。

そんな思考で過ごしているためか
「考えすぎだよ」という言葉は
いままで多くの人に頂いた。

そのうちに、「考えすぎ」自体がアイデンティティと一致してきた。僕は「考えすぎ」な人間で今後も良い。ちなみに念のため、思慮が深いと言ってるわけではないよ。寧ろ、長期的に悩んだ上で出してきた結論は結局のところシンプルだった。悩んだことが無駄だというなら反論もしない。相手もしない。



ただ、答えだけ分かったふりをしても
正直意味が薄い事柄は多い。

両極端それぞれの良し悪しからこそ、
物事の中間地点は探れる。
弁護士と検事が主張をぶつけ合って、ようやく社会における処置のバランスが決まるわけだし


つまり、「考えすぎだよ」という言葉で
僕の中の裁判の邪魔をした人間には(トータルとしてはさておき、その発言自体には)大抵感謝してない。反骨心がその都度だいたいポッと出てる。


そもそも残りの人生なんて、
たいしてする事もない。
余地があるならなるべくあーでもない、こーでもないと考えたい。サマヨウこと自体が目的じゃないよ。さまよった先のシンプルな答えが欲しいわけ。

だから考えの邪魔しないで。極論だろうと、僕と一緒に考えを加速させてくれる事は快である。カイ。



さてその上で、しかしながら、
まぁなんということでしょう
僕も当然「考えすぎだよ」と人に言ってきたし
これからも機会が来てしまう度に言います。
確実に。

「向き合うのがめんどくさいから」
「時間がないから」
「わざわざ一緒に考えてあげる義理もないから」

上記、なんとも文字にしたくはない理由。
心の貧しさと言うべきか
それが現実と言うべきか
受け入れて迎え入れていきたい、
という迎貧。

当面、無料記事だけになります。