感性から思考へ。思考から感性へ。
人には、感性を使って生きている時期と、思考の力を借りて生きている時期があったり、そのうち、どちらも使えるようになるのではないかな?と、周りを見ていても感じます。
思考で生きてきたけれど、心と身体のバランスを崩して、すこしバランス調整をするような。
感性というものは、語る人によって解釈が分かれるものではないか?まだまだ、その正体が見えないようなものではないかと、感じています。
その感性について、記事を書きながら探っていきたいなと思っていますが、昨日から、私自身が感性とどうやって生きてきたかについて書いています。
昨日の記事では、幼児期から小学校低学年くらいまで、私が感じていた感性の存在を書いていました。
幼少期から感性を大事に育ってきた(育てられてきた)私の、思考のスイッチが入ったきっかけは大学受験でした。もしかしたら、人と比べたら遅いのかもしれません。ですが、今、人と比べたらしっかりと思考している感覚はあります。
他の教科ではあまり苦労しなかったものの、小論文を書くということが、そのとき私がもっていた概念ではどうしても理解ができず、苦労したのを覚えています。
仮想・仮定での状況で、正解を導き出すこと。
まずこれは、現実と仲の良い女性性には難しい。
それから、お互いが書いたものをも批評し合うこと。その時通っていた小論文のクラスの形態が、批判され、それに反論することで自分の正しさを証明しなければならない、というものでした。
これもやはり、女性性には難しいこと。
論争するということ自体、今まで経験したことが無かったですし、感覚・感情としてあまり気持ちがいいものではなかったのですが、
自分が何をしているのか?
どうすれば、「上手く出来る」のか?
先生が何を言っているのか?
まったく、理解が出来なかった、糸口さえなかったのを覚えています。
自分の中に、そういう概念が出来上がっていなかったのでしょう。
大学受験の方は、授業で扱ったような小論文のテーマは出されなかったのですが、何故か、手紙や国際社会の情勢など、当時の私にも書いやすいテーマで、ちゃんとしたものが書けたのでしょう、希望した先に進むわけですが、大学でも、その小論文のクラスと同じような場面に出くわすことが有りました。
なにか、このままではいけない事があるのではないか?
そこから、本を読んだり、周りの話を聴きながら、しばらく思考することに重きを置く時代に突入していきました。
今思えば、抽象的思考ができるようになるのは10歳くらいだから、考えること自体には困難はなかったはずです。
なにかをするうえでの作法というものが、育った環境や、生まれつきの認知の傾向などで、準備が出来ていなかった、というように感じています。