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自分の感覚が大切にされていい理由

友人のおすすめと、引越し先のマンションが、生協の玄関前置き配もOKとのことで、生活クラブの会員になりました。

野菜が美味しい。
いままで乳製品はほとんど口にしなかったのですが、とても美味しい。
毎月届く、本のカタログセレクションも秀逸!(図書館に置いていない本だったので、2冊買ってしまいました...)

会社員時代、全国のいろいろな生協さんに営業として出入りさせていただく中で、生活クラブの特別な魅力を知ってはいたのですが、、ついに利用者になるとは。

全体的な物価が上がって、当時よりも「高いな」という感じも薄れました。

昨夜、毎週の注文をしようとカタログを見ていると、生活クラブオリジナルの雑誌が入っていて、

パラパラとめくっていると、中央大学の池田賢市教授による「子どもの意見表明権」という内容の記事を見つけました。

1994年、日本は「子どもの権利条約」を批准しましたが、それに対応する法律は、ようやく、昨年(2023年)「こども基本法」として制定されたという背景からはじまる文章です。

特に、子どもの権利条約12条に示された、こどもの「意見表明権」にある、その「意見」というものの捉え方は、英語の原文と、日本語ではズレがあるということ。

このズレは、日本社会は、子どもという存在を(無意識に)どのように見ているか、ということに深くつながっているように思います。

英語の原文では、「意見」とは、「View(ビュー)」。
「Opinion(オピニオン)」
ではない。

日本語で、意見というと「Opinion(オピニオン)」という言葉との繋がりを強く感じます。

Opinion(オピニオン)というとき、そこには根拠となる理由を示すなどの論理性が必要となります。

ですが、View(ビュー)は、見て、感じること。
秩序立った言葉は必要なく、なにかに反応すること、ただそれだけでいい。
「あ」とか「わ」とか、ジタバタ暴れることも立派な「意見」。
泣くのも意見だから、赤ちゃんでも社会参加が出来る。

「子どもの権利条約」はそれを明文化したすごさがある、そうです。

「好き」「嫌い」を感じることも「意見」

ただただ「好き」「嫌い」と感じることも意見であり、それを感じることの権利ではないでしょうか。

「好き」に理由が説明できないからといって、子どもに(大人にも)説明を迫る必要が、いったいどこにあるのでしょうか?

「好き」の理由を説明できれば、それはそれで良いことがあるでしょう。
でも、説明できないからといって、大切に扱われない理由はないはず。

その「好き」の感覚を後回しにすると、個人としても、集団としてもこじれて、こんがらがっていきます。

「自分のやりたいことがわからない。」
「組織の(自分の)存在意義がよくわからない。」

でも、本当のところは「言ってはいけない」「それではいけない」と押し込めたものが、どの人にも眠っているのだと思います。


【参考文献】
・生活と自治 No.661 「この人に聞きたい」

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Hiromi T
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