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子どものとき、つくづく欲しかったもの、対話の時間。

昨日と一昨日の記事を書いていて、改めて思ったことがあるのですが、それは、小さな頃から一緒に考えることを助けてくれる大人がいて欲しかったということです。

私には、両親や、親戚に相談に乗ってもらうという経験がありません。

私が相談できなかった、しなかったというのが一番の理由ですが、両親はいい意味でマイペースで自分の人生を楽しんでいて、子どもに対して「こうしなさい」とはあまり言いませんでした。(どうやら、私に何を言ってもきかないから諦めたのだと、30歳頃になって聞かされましたが)

周りの親戚も一緒に子育てをしてくれていましたので、人生の進路や、どんな世界を作りたいかということを聞いてくれましたが、私の答えがあまりよく受け取られなかったのか、

「そうではないことを、考えなさい」
「それはあまりおもしろくないわね」

と、一蹴されてしまうので、思考もそのときの会話も、それ以上先に進むことが出来なかったのでした。

こういうとき、なにか期待する答えを持たない大人が、

「その答えの裏にある、思いはなんだろうか?」
「なにかそう考えるきっかけがあるのだろうか?」
「もう少し、違う観点で考えるとどうなる?」

と、一緒に対話をしてくれていたらどうなっただろうか?とたまに考えます。メンターやコーチのようなイメージでしょうか。

よくわからない中で、ひねり出した答えが否定されてしまったら、小さな子どもは諦めたり、嫌になってやめてしまいます。

そういうわけで、もう自分の大事な思いを、ここで語るのはやめようと思うようになった私は、いろいろなことを一人で決めて、いつしかそれが癖になっていたと思います。それで、随分苦労したことも有りました。

今の私は、ようやく安心して相談出来る人ができて有り難い限りです。
自分で決めて、自分で進めてきたので、おかげさまでそれなりの逞しさも育ちました。

これは、私にとっての原体験の1つで、これ体験と想いをもとに、子どもの生きやすさを支えることを、これからも行っていくのだろうなぁと思います。

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Hiromi T
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