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子どもとの関わりは、自然な創作物
最後と言っていたのに、週末に子どもの発表会を見ていたら、どうしても書きたくなってしまったので、もう一度だけ『遊ぶヴィゴツキー』という本から、こどもが大人の可能性を引き出してくれるということについて書きたいと思います。
大人は赤ちゃんの喃語(「マーマ」)を受け止め、そして完成させる(「マンマの時間ね」「哺乳瓶落としちゃったのね。今拾ってあげるからね」)。大人は否定したり批判せず、オファーを受け止め、それをもとに作り上げる。
赤ちゃんを相手にするとき、大人はこのような即興的で会話的な意味づくりを無意識のうちに行っている。しかし、同じ大人が、家でも仕事場でも大人に対して応答するときには、オファーを受け止めてることもあるが、拒否的に応答することが多い(同じように無意識に)。
その日観た子どもたちの劇は、知っている絵本のお話や、既存の劇ではなく子どもたちが日々の生活から創り上げた物語です。
とても素晴らしい活動ですが、セリフが聞こえづらかったり、場面を理解するのに、大人も一生懸命になっていたと思うんですね。
表現したい・伝えようというエネルギーと、受け取ろうとするエネルギーが相互に作用するような。
プロと言われる表現者による劇であれば、同じようなことは起こらないと思います。
相手はプロなんだからという信頼と同時に、「ちゃんと伝えてくれるはず」という態度がどこかに生まれてきそうです。(諸外国では違う場合もありそうですが。)
もし、そのプロによる表現が不完全であるとき、それは「自ら補って、理解しよう」という働きには、なかなかならないのではないかと思います。「分からない」は「分からない」のまま、過ぎ去ってしまうか、批判的なものになるかもしれません。
以前、こちらの記事でも書きましたが、私は基本的には芸術を完成させるのは鑑賞者を含めた誰かであると考えています。
子どもたちの劇を観ているとき、
赤ちゃんや、言葉が流暢ではない人たちと会話をするとき
自然と、その表現の中に自分を介入させようとする動きが生まれてくるのではないかと思います。
だから、子どもと関わる時間というのは、とても創造的な働きになると、言われるのではないでしょうか。
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