豊かになったのに、もっともっとと渇望する人類の末路
人類が長い時代を暮らした狩猟社会。
自分より大きくて、力が強い動物が周りにうようよいた。
いつ襲われるかわからない状況を常に警戒する毎日。
医者もいない、薬もない。
ケガしたり病気になっても、治すすべがなく幼くして命を落とす子どももたくさんいた。
嵐になって家が飛ばされ、雷が落ちて家が燃え、明かりもない真っ暗な夜を耐え忍んで暮らす。
地球上での弱肉強食の序列では人間は下の方だった。
今は人類の命をおびやかすような動物と共存しなければいけない暮らし方は相当少なくなった。医者や薬があり、余命は大幅に伸びた。丈夫な家をつくり安心して暮らせる環境がつくられた。
人類は自らの暮らしの安全性、快適性を高めようとずっと努力を重ねてきた。そして今、特に日本では暮らしの物理的な安全性、快適性は限りなく高まっている。これを豊かと呼ぶのならば、豊かな社会は実現されたのだ。
私たちは豊かな社会を享受している。もっと喜ぶべきだ。
「豊かだから何の不満もない、何にもしなくても良い、あとは死ぬだけだ、以上。」
これで良いはずだ。
しかし、何かおかしいような気もする。
このおかしさの正体をつかみたい。
毎日毎日何もしなくても衣食住に困らず、不安もなく暮らせることの何がおかしいのだろうか。
國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」は、そんなふわっとした疑問に寄り添ってくれる本だ。
ラッセルやハイデガーなど哲学者の考えをひもときながら、暇や退屈の正体を探っていく。
この本は私にとっては分かりやすいようでいて、分かりにくい。分かりにくそうでいて、分かりやすい。
この本の読後に感じたことは、人間は自らが生き延びるために身につけた不安や警戒に対する高い推察能力、察知能力によって、どんなに客観的には不安になる必要がない環境においても、自ら新しい不安や警戒を創造してしまう運命にあるのではないか、ということだ。
常に不安を自らの心に生み出し、それを解消する名目でせわしなく腐心し、ぽっかり穴をあけておくことはできない性質があるのだ。これは刻み込まれたプログラムであり、人間である以上逃れることができない。だから暇や退屈を厭い、何かをそこに入れようとする。
どんどん詰め込み、それが害にならないならまあしょうがない。
しかし、もっともっとと詰め込もうとするあくなき欲望は、ある意味で病的に様々なものを巻き込んで害をまきちらしていく。
例えば、地球温暖化、大気汚染、台風、洪水、地滑り、、、人間の活動によって引き起こされた自然環境の変動は数知れない。自らの生存環境そのものをおびやかす事態になっても、それを真剣にわがごとに考える人はどれだけいるだろうか。
ここらで過去の歴史、人類の歴史を断ち切るマインドの変革が求められる。もう詰め込まない、空いたままで満足する、それができなければ害を及ぼさないような詰め込み方に誘導する。どちらもありだと思う。