生きることは死に向かって進むことである、をどうポジティブに解釈するか
生きるということは死に向かって進むということである。
死とは終着点であるのか、通過点であるのか。
そこを目的とするなら終着点であって、そこから先が目的なら通過点である。例えば、名古屋から東京に行く。東京が目的なら終着点だし、仙台が目的なら東京は通過点であるのと同じ。
誰もが死ぬために生きているとは思いたくない。
東京で不幸なことが待ち受けているが、静岡で気晴らしして楽しもうという考えだと、本当に心から楽しめるだろうか。
頭のかたすみには東京に着いたら何もかも無くなってしまう、というむなしい感情がこびりつき、なんだかぎこちない楽しみ方になってしまうのではないだろうか。
では、どう考えたら良いのか。
例えば、世界一周して戻ってくると考えてはどうか。
名古屋から東京、仙台、函館、知床、そこから船に乗り、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ウイーン、イスタンブール、ボンベイ、バンコク、上海、台湾、沖縄、鹿児島、高知、大阪とめぐって、名古屋に帰ってくると考えてはどうか。
果てしない旅、目的地があるようで実はない旅。
自分自身がそんなに巡れるとイメージできるだろうか。
実際に世界を自分の足でめぐるのと、今、頭の中でめぐるのと、どれくらい大きな違いがあるだろうか。
実際に世界一周して帰ってきたときと今とでは何かが変わっているだろうか。もちろんたくさんの経験や思い出が積み重なっているだろう。だが、名古屋から豊明に行くのと、名古屋からニューヨークに行くのと、その距離の長さと経験や思い出の質や量は比例しない。
例えば、名古屋からフラフラあちこち、いろんな店に立ち寄り、いろんな人に会いながら浜松に行くのと、名古屋から飛行機でニューヨークに飛ぶのとで、どちらが密度の濃い経験になるだろうか。
目的地はあるようでない。毎日毎日が目的を達成したと思えるような生き方を積み重ねれば、それが一番良いのかもしれない。
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