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「徒然になるままに日暮らし」のヒットは、あまりに人間っぽいからか。
人間はこう生きなければいけない。
人間は生まれた務めをはたさなければならない。
人間とはかくあるべし。
生まれて気が付いたときには、
あれをしろ、これをしろ
あれはダメ、これはダメ
周りからがんじがらめに生き方を定義された。
親が子を育て、社会の中で生きのびていくために
このあり方は自然の摂理に沿ったもので、不自然さはない。
ただ今や、一人の人が一生を生きるうちに、その時その時に適した環境が目まぐるしく変わる時代になってしまった。年長者、経験者の言うことが必ずしも将来も有効とは限らない時代になってしまった。
このような状況においては、過去に得た成果をそのままうのみにできず、見えない未来を手探りで探し当てていくしかない、というかなり足場がぐらぐらしたイメージになりがちだ。
しかし、どんなに環境が変わったとしても変わらないことがある。
それは私たちが人間であることだ。
いつまでも人間であるということは、人間の本質つまり人間っぽいことをつかみとれば、それは未来に向けても十分活用できる資産になる。
「徒然になるままに日暮らし」とは、鎌倉時代の後期に兼好さんという、何ものにもとがり切れなかった普通の人がつづった「徒然草」というエッセイの冒頭だ。これが後世にわたり大ヒットとなり、義務教育で誰もが音読をする古典となっている。
その時その時の、政治や社会の枠組みの中で、人間はこの情勢の中で「こう生きなければならない」、ということは時代によっても立場によっても多様な切り口や評価があるだろう。しかし、政治や社会の枠組みはとりあえず置いといて、「人間ってこうだよね」ということは、その枠組みと無関係であればあるほど、真実味を感じやすく、たくさんの人の納得や共感を得るものとなる。
ただし、形の見えない抽象論だけ語っていても共感されるのは難しい。そのときに人々が感じているもの、大事にしていること、問題になっていることを素材にして、そこから本質の理解につなげていく書き方が重要だ。
兼好さんの文体は、かくあるべしという天の目線ではなく、こうだよねという地の目線とも言える。究極的に人間っぽい世俗的なところから本質へと読者を何気なく導いている。戦略的にこの文章を書くのは難しく、徒然になるままにつづったからこそにじみ出た珠玉の文体なのだろうと感じる。
本物は陳腐化しないとは、こういうことを言うのだろうか。