わたしの中の兄弟と

時と共にわたしはゆっくりと手をあげる。ここにいますと、声を上げるために。その先で、自動車の排気音がゆっくりと通り過ぎる。足を動かそうとしても、重く鉛をつけたように固まってしまった。

 「どうかされましたか?」1人の女性が声をかけてくる。わたしは瞬時に身構える。わたしの知っている人ではなかった。彼女はわたしが見たこともないような容姿をしていた。どんな人とも似ていない。テレビに映る有名人や、同級生だった女性とも似ていない。
「いえ、大丈夫です。ありがとう」
それだけ言うと、わたしは足に血流が流れてくるのを感じた。動くぞ!うん。動く。
 去っていく女性。反対方向に歩くわたし。

 ふいに猫が歩いているのに気づく。わたしは猫が苦手だ。また足がガクガクと震え出す。力が抜けて、今にも体が崩れ落ちそうだ。

(呼吸を整えるんだ。目をつむって、ゆっくりと自分自身を立て直すんだ)
 声が聞こえる。わたしの中の兄弟だ。現実の兄弟は26年前に会って、一度も顔をあわせていない。26年前から作り上げたこの内部人格というべきものが、わたしに勇気を与えてくれる。

 (いいぞ!力が増してきた。いいぞ!エネルギーが整ってきた)

 わたしは猫が通り過ぎた後の歩道を歩く。コンクリートの隙間に雑草が生えている。これだよ。これだよ。
 追憶の彼方にあるのは、絶対的な守護されるもの、そして、守護するものとしての、兄弟だった。
「今日もありがとう。助かったよ」独り言を言うと、風がスーッと吹いていく。気持ちよさを感じて、思わず声が出る。
「よおし!」
 暑さは続いているが、まだまだ先は長い。行っていいかい兄弟?

(もちろんだ。もちろんだとも。いくんだ。行けるところまで。いくんだ。きのすむところまで)

 ありがとう。わたしの心が感謝で満たされる。
ありがとう。わたしの心が新しい感覚に包まれる。
 うれしいのだ。ここまで、うれしいのだ。
 わたしは夏の暑さの中で、幸せにひたされる。冷たい水につかって、涼むように。

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