巻二 漢書

「漢書」、またの名を「前漢書」は、司馬遷の「史記」(上古~武帝太初四年B.C.101年)の後を受け、班彪(A.D.3-A.D.54)の著した(史記)「後伝」   を基に子の班固(A.D.32-A.D.92)が父の遺稿の整理を契機として、漢高祖元年(B.C.206)から新朝王莽の地皇四年(A.D.23)に及ぶ約230年の歴史を記録した王朝一代記である。尚、班固亡き後妹の班昭が完成させた八表と班昭の門弟である馬続の補充による天文志を含め、唐代の顔師古による註釈付の「漢書」が今日一般的に流布する「漢書」である。
さて、前回のテーマであった、論衡の著者王充と班固は同年代人である。王充が5歳年上、王充は、建武三十年(A.D.54)に首都洛陽の太学で学んだ折、班固の才能を認めたとされている。
本題に入ろう。
漢書には、倭人に関する記述が1箇所、倭人と思わしき記述が1箇所の2箇所の記述があり、以下で順次見ていきたい。


 

1.      巻二十八下地理志第八下
「夫楽浪海中有倭人分為百余国以歳時来献見云」
(夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す、歳時を以て貢物を献上し謁見に来ると云う)  
 
誰もが知る有名な一節である。
以下に、キーワード毎に解釈を行っていきたい。
1)    燕地
本文は、漢書巻二十八下地理志第八下の内、“燕地尾箕分野也”で始まる燕地の条の末尾、話題が東夷に及び孔子に関する回顧談の後、突然思い出したかのように現れる一文である。
ここで注意したいのは、倭人の居住地が燕の一部として描かれている点である。この点「山海経」の認識を共有していると言える。
2)    楽浪海中
楽浪郡は、武帝の元封三年(B.C.108)、現在の平壌付近と推定される場所に設置された。
ここでは、倭人の居住地が少し絞り込まれている。B.C.3世紀頃の様子を描いたと思われる「山海経」の記述では、朝鮮半島南部の可能性も否定できなかったが、200年の時を経て弥生中期中葉の頃には、朝鮮半島を離れた其の先の海中に居たことが明示されているのである。但し、楽浪海中のどの方角かは記載がない。顔師古註では、“魏略に云う、倭国は帯方東南の大海に在り、・・・・”とあり、東南方向が示唆されているがこれは後付。班固は、南方であると認識していた可能性もあるが、言及していない。実際、九州北部は、楽浪郡から見れば南方にある。
3)    倭人
周辺部族の内の一つという程度の認識のされ方である。百余国に分かれていたということは、九州北部だけでは収まりきらないようにも思う。この時期には、水稲農耕も日本列島の広範囲に普及している。極めて大雑把に、一カ国平均1,000戸、人口5,000人として百余国なら50万人強。纏まれば決して弱小部族とは言えないが、纏まっていなかったのであろう。当の倭人たち自身に自分たちが倭人であるという自覚があったのであろうか?古代史ファンにありがちな古代妄想をお許しいただいて言うなれば、朝鮮半島のどこどこからやって来たとか、中国華南のどこどこからやって来たとか、同郷人毎に“クニ”を形成していたというのが実態ではなかったのだろうか?倭人の様子を現在の日本をベースに想像すべきではないのである。むしろ、ヨーロッパやアフリカの歴史にあるように`、人種、言語、生活習慣等様々な人々が、近隣或いは遠隔地間で交流、交易、紛争、攻防や興亡等緊張の中の共存関係でいたのではなろうか?
4)    以歳時
“一年に一度”、“毎年”という意味。常識的には、新年の挨拶ということだと思うが、特に言及されていない。
5)    来献見
多くは、(来たりて献見す)とするが、(献見に来る)と読んだ。大意に違いはない。
“献見”は、“コンチワ”と勝手にやって来たものでもなかろう。時期、場所、頻度等の許可に基づいて行われたと考えるべきである(通行手形のような物が発行されたかもしれない)。又、単に貢物を差し出したのでもないだろう。挨拶状に貢物の目録を付けて差し出したのである。つまり、倭の使者には漢字で正式な外交文書を作成することができるだけの、知識と教養が備わっていたのである(或いは、大陸出身者又はその二世等が使者にたったのかもしれない)。近年、弥生時代の遺跡から硯と思われる物が出土しているが、傍証である。
6)    云
(~と云う)、(~と云われている)、(~らしい)。つまり、上記の倭人に関する記事は、公式記録又は信頼できる根拠に基づく記述ではなく、伝聞等に基づく班固の確証なき知識或いは見解だと思って良い。

2.      巻九十九上王莽伝
「越裳氏重訳獻白雉黄支自三萬里貢生犀東夷王度大海奉国珍」
(越裳氏は訳を重ねて白雉を献じ、黄支は三萬里より生きた犀を貢ぎ、東夷の王は大海を度して国珍を奉じる)
 
論衡の巻八儒増篇“周時天下太平越裳獻白雉倭人貢鬯草”を彷彿させる記述である。
王充と班固が知己の間柄であったことを考え合わせると、論衡の焼き直しであると考えるのが妥当であろう。
ただし、記述の対象とする時代には千年の隔たりがある。そして、倭に関する情報もより我々「日本人」に近いものとなっている。大海を渡ってやって来た東夷の王とは、倭王であることが強く示唆されているが、明言を避けている。又、貢物を鬯草から国珍(特産品)という表現に変更している。
班固は、巻二十八下地理志第八下にもあるように倭人は東方の民で有ると認識しているのに対し、論衡の認識では南方の民と解すべきなので、この矛盾点を解消するための折衷案として曖昧な表現を採用したのだと思われる。(越裳や黄支に関する記述が具体的なのと東夷王に関する曖昧な記述が対照的である)
時代は異なるが客家のように中国大陸を大移動した部族が存在することを考えると、戦乱に明け暮れた千年の間に倭人が、南方より朝鮮半島を経て日本列島に定住するようになった可能性は否定できない。或いは、いくつかの部族の混血によって形成された日本列島に住む倭人のルーツの一つが南方にあったという可能性も考えられる。



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