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小説 金木犀が香るとき

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 目がぼんやりと開いていき、だんだんと天井の木目にピントが合っていく。何年か前から目覚まし時計は持っていない。精神科から処方された睡眠薬を飲むようになってからは薬が切れると目が覚めるので、薬を飲む時間さえ考えておけば、寝坊することは無いし、その上職業上、大事な用事でもない限り少々の寝過ごしは許されるので目覚まし時計が無くて困ることは何もない。
 ベッドから起き上がると、飼い猫のウメがにゃーにゃーとごはんの催促をしてくる。足元がふらふらするがウメがついてこいと言わんばかりにこちらを時々振り向きながらそそくさと歩いていくので、キャットフードがある台所へ向かった。キャットフードを取り、皿に入れると満足そうにカリカリと音をたてて食べ始めた。他に今、この家に聞こえてくるのは鳥のさえずりぐらいで、家の窓から見えるのは庭の花と赤や黄色に色づいた木々だけで、まるで人間は自分以外存在していないようにさえ感じる。
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 今まで頑張れていたことができなくなっていた。やらなければならないことでも何も集中できなかった。できないことに焦りを感じ、より一層手にものがつかなくなるという悪循環に陥り、大学二年生の春、とうとう家から出られなくなった。朝、学校に向かおうとすると吐き気が襲ってくる。何をしたって治らない。二日、三日とたち、これはただの体調不良ではないと感じてきた。食べることやお風呂に入ることもままならない。神経が高ぶって、睡眠もろくに取れない。異常な不安感にも見舞われた。あまりの不安に襲われると自分の首を軽く絞めるようになっていた。これは自分でもおかしいと思った。この辛い状況からどうにか抜け出したい、楽になりたいと感じた。今ならまだ動けると思い、どうにか重い体を動かし、精神科に向かった。向かう間も、大学もろくに行けていないくせにと周りから思われているのではないかと不安でしかたがなかった。医師からは鬱だと診断された。抗うつ剤、安定剤、睡眠薬、胃薬が処方された。これで本当に楽になれるのかとあまり信じられなかったが、私の症状は着実に回復していった。しかし、二度と大学に通えることは無かった。退学の手続きをし、親には家に帰ってこいと言われた。私はそれを拒絶した。その頃、実家には祖父が同居していた。祖父は昔から頑固で、固定概念の強い人だった。祖父の常識から外れると嫌味を言われ、逸脱する私を許さなかった。そんな祖父のことが昔から苦手だった。わざわざ会いに行かなくても分かる。祖父は精神病なんて甘えだという考えの人だった。それも一つの理由だが、そのころには、私の症状は随分回復しており、在宅で行える仕事ぐらいは少々できるまでになっていた、その上、大学に在学していたころに送った、児童文学の賞に入賞し、うまくいけば書籍化するといわれた。鬱になってからできなくなったことはたくさんあった。けれど文章だけは書くことができた。闘病記のようなこともよく書いたし、小説も書いた。これだけはむしろ以前よりできるようにすら感じていた。どん底の今、私にはこれしか無い、どうにかしてしがみつきたいと思った。それを母親に言うと、「無理せずやってみなさい。私は応援する。お父さんもどうにか説得してみせる」といった。父はこのことに反対だったが、どうにか母が説得してくれた。


 田舎暮らしだが現在はどうにか小説一本で暮らせるようになった。しかし、今も薬は飲み続けている。まだあの頃から何も成長できていない気がする。幼い頃から叩き込まれた固定概念というのは簡単にはなくならないものらしい。          
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 オーブントースターのチンッという音が聞こえた。トーストを取り出し、皿に乗せ、冷蔵庫からマーガリンを取り出した。テーブルに座り、マーガリンを塗っているとウメがごはんを食べ終わったのか、足元にすり寄ってきた。片手でウメを撫でながら、トーストを口に詰め込んだ。安定剤を飲まないと上手く仕事に取り掛かれないので朝ごはんはいつも早食いになってしまう。食べ終わり、皿をシンクに置き、書斎に向かった。書斎といってもシンプルなベージュの机の上にノートパソコンと小さめのプリンターそれと本棚が一つあるだけの部屋だ。椅子に座り、机に置いてある安定剤を飲み、膝にウメを抱え、ボーと窓の外を見つめた。

 ここには三年前に引っ越してきた。白い板張りの可愛らしい平屋で、外には小さめだが庭があり、今の時期は金木犀や秋明菊が咲いている。ここ一帯は田んぼなどが広がっている田舎だが、二十分ほど車を入らせれば、国立の病院、スーパーや服屋さんも生活に困らないほどにはある。何の不満もない。むしろ小さいころに夢見ていた生活だ。小説家になり田舎の絵本みたいな可愛らしい家で猫と一緒に暮らす。しかしいまだに病気は完治せずにいる。ずっと脱獄囚のような気分が胸につかえている。
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 二時間ほど書いてみたが、いまいち集中出来ていない。今日はやけに落ち着かない。昨日、父から電話が有ったからかもしれない。大学を中退してからはあまり実家には帰っていない。電話はたまには帰ってきなさいという内容だった。帰るかどうかは濁して電話を切ってしまった。母とは定期的に連絡をとるのだが、父とはあまり連絡しない。大学を中退するまでは世間の一般的な親子と比べても仲が良かったほうだと思う。ただ父は祖父に似て、少し頑固で嫌味っぽいところがあった。そのため私は父に幼い頃から機嫌うかがっているところがあった。いい娘でいなくてはという思いがあった。うつになって、大学を中退した私は、『いい娘』ではなくなったのだと父に会うのが怖くなった。けれど、こうして父はたまに連絡をくれる。見放されたわけじゃない、愛されていないわけじゃないと頭ではわかってはいるが、実家に帰ろうとすると怖くて足がすくんでしまう。けれど、一度自分の家族と向き合わなければこの病気は一生治らないのかもしれない。
 大学を中退してから祖父に初めてあった時、祖父はもう話すことも、こちらを向くこともなかった。私は、その事を実感した時、涙が止まらなかった。もっと祖父に愛されたかった、もっと話をしたかった自分に気がついた。全てを祖父のせいにして、本来の自分をわかってもらう努力もせず、祖父の気持ちも考えずにいた。固定概念に囚われていたのは自分の方だったのかもしれないと感じた。私は今も傷つくことを恐れ、同じことを繰り返そうとしているのかもしれない。
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 部屋をぐるぐると歩き回った後、意を決してノートパソコンを閉じ、リュックサックにいれ、クローゼットのある寝室に向かった。適当なワンピースを着て、車のカギをとった。髪を適当に整えて、すっぴんを誤魔化すために大きめの伊達眼鏡とキャップを被り、足早に玄関に向かった。ウメは突然私がバタバタと動き始めたのに驚き、少し遠くから様子を伺っている。そのウメに「いってきます」と言いながら一撫でし、皿に多めの水とキャットフードをいれ、家を出た。


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 家を出たものの段々と不安が強くなってきた。ハンドルを握る手も震え、吐き気さえしてきた。このままでは事故を起こしかねないと思い、近くの海辺にある駐車場にとまった。段々と震えと吐き気が収まってきたが、次は自己嫌悪に苛まれてきた。二十七にもなって実家に帰るのをこんなにも怖がり不安に思うなんて情けない。そわそわし落ち着きを無くしてきたので取りあえず、車から降り、海辺を歩き始めた。何も考えないように波の音だけに集中した。
 しばらく歩いているとカフェらしきお店が見えてきた。砂浜に沿っている道路を渡った先にある。夏の時期は海水浴を楽しみにくる人々が多く集まるのだが、こんな時期の海なため車の通りは少なかった。道路を横切り、店の前まで来てみるとコーヒーのいい匂いがしてきた。海辺にあるカフェらしく青と白でデザインされた外装だ。どこか懐かく落ち着くように感じられ、自然と店へ足を踏み入れた。
 店の中は意外にウッド調で揃えられていて、カウンター席が5つとテーブル席が四つあった。先客は、二人しかおらず、空いていた。平日の午前十時なのだからこんなものなのだろう。「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」とマスターらしき男性が声をかけてきた。歳は近そうだ。穏やかな笑顔で目立つ顔立ちではないが、整っている。「お好きな席にお座りください。」と言われたので、空いているのをいいことにテーブル席を選んだ。
ノートパソコンを取りだして、執筆し始めた。何もかもが中途半端だ。せめて仕事だけでも終わらせよう。

 十分ほど経つと頼んでいたオリジナルブレンドのコーヒーと抹茶のマフィンが「どうぞ」と机に置かれた。小声で運んできてくださったマスターさんにお礼を言い、執筆作業に戻った。
ひと段落して、パソコンの画面から顔を上げると他の客はいなくなっていた。そのタイミングで頼んでいたコーヒーのおかわりが運ばれてきた。するとマスターさんが何かを探るような眼で見てきたので何だろうと思っていると、
「二田さんだよね?」
と話しかけてきた。知り合いだったのか、気づかなかった。顔をよく見て、記憶からどうにか探り出し、やっと思い出した。
「えーっと……あっ、松木君?」
「そうそう。久しぶりだね。」と彼はにこやかに笑った。昔の知り合いに会うのは苦手なのだがそういう気持ちは彼には湧いてこなかった。

 大学の講義で隣の席になってからは、よく彼と話していた。まだ成人していないとは思えないほど落ち着いた雰囲気があり、その上に気さくで慣れない地に引っ越してきたばかりの私にとって彼と話している時間が一番自分らしくいられている気がした。あの頃の雰囲気はそのままだが当時していた眼鏡は掛けていないようだ。それと笑顔が当時より晴れやかな感じがする。当時は笑顔に含みがあるというか、ミステリアスな雰囲気があった気がする。
「まさか、また会えるとは思ってなかったよ。ここ松木君のお店なの?」
「うん、そうだよ。大学出てから役所に勤めてたんだけど辞めて、二年前にここを始めた。そっちは今どんな感じ?」と言った後、彼は「今もうお客さん他にいないしいいかな」と私の正面の席に座った。
 大学を辞めた経緯や今の仕事のこと、実家に帰れてないこと、実際にここにはいく勇気を無くして来たことまで話してしまった。自分で人とあまり関わらない生活を選んだのだが、ずっと自分だけが何かに囚われてしまったような孤独感を感じていた。誰かに吐き出したいと思っていたし、彼なら受け止めてくれる気がした。
 「そうだったんだ、じゃあこの店に来てくれたのは本当に奇跡的なことなんだ。俺、ラッキーじゃん。会わなくなってから二田さんどうしてるんだろうと思ってたからさ。」
「ほんと?」と笑いながら聞くと、
「ほんとほんと!」と彼も笑って答えた。
私の話を重く受け止めすぎず、私が実家に行けなかったことを良い方向に捉えて言ってくれて私自身もラッキーだったかもと思えた。
その流れで彼がどうしてこのお店を開いたのかも聞いた。彼は県庁に就職するために大学に進学したらしい。しかし、これは彼の意志では無く、母親の勧めだった。彼は幼い頃から母に進学して安定した職に就いてくれと言われ続けたらしい。自分が高卒で特に資格もなく、女手一つで彼を育てるのに苦労したが故に出てきた言葉らしい。一度はその母親の言葉通りに就職したが、黙って仕事を辞め、資格を取得し、コーヒーの淹れ方などを習いこの店をオープンしたそうだ。オープン数日前に母親にこのことがばれてしまい、一度関係が冷え込んだこともあったが、今は母親も理解して仲良くやっているらしい。
「そっか、よかったね。お母さんも理解してくれて、こうやってお店もやれてるなんて素敵だね。」
素直に思ったことを口にしたが、これは場合によっては嫌味を言われたと思うかもしれないと、慌てて「自虐とか嫌味じゃないからね‼」と強めに否定してしまった。
「大丈夫、分かってるよ。けど、ちょっと後悔してるな。黙って辞めずにちゃんと言えば良かったなって。黙ってやったからより一層関係が悪くなっちゃったし。」
「けど、その後はしっかり向き合って、今は良好な関係なんでしょ?立派だよ。私なんて人生逃げてばっかだよ。」と私が言うと彼は驚いた顔をしていた。
「全然そんなことないよ。大学やめて、病気になってもどうにか自分で生計たてて、むしろそのことを生かした仕事をして、今もおじいさんのことを後悔して、実家に帰ろうとしたんでしょ?寧ろすごい挑戦ばかりだなと思う。自分の弱いところを認められて本当にすごいよ。」
 私は精神を病んでしまってからは、自分の創り出す世界や自分が美しいと感じるものだけに目を向け、心地いいものしかない世界に浸り続けていた。それに満足しながらも、これは逃げなのだろうと感じていた。現実を見ることのできない弱い人間なのだと自分を卑下していた。あの頃から何も変われていないと思っていた。彼にそう言われると私の人生そんな捨てたものじゃなかったのかもしれないなと思えた。実家には、いままで申し訳なかったという思いで帰ろうとしていた。私はもっと胸を張って帰ってもいいのかもしれない。そう思うと涙が止まらなかった。彼は、少し驚いてから、黙ってハンカチを渡してくれた。
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「いろいろとありがとう。いってくるね。」
「うん、応援してる。」
会計を済まし、ドアの前に向かった。彼は、
「ありがとうございました。」
と穏やかな笑顔で言った。
「昔よりもいい笑顔だよ、本当に。コーヒーもすごく美味しかった、素敵な夢を叶えたんだね。私も頑張る。また来るね。」
彼は、嬉しそうに、
「うん、ありがとう。また来てね。」
と手を振った。

 

店を出て、車に入り、電話を掛けた。
「もしもし?」
「もしもし、お父さん。今からそっちに帰るね。一番最近に出した本ももってくね。」
「そうか、俺の分は買ってあるからお前のサインでも書いてくれよ。その一冊は、親父の仏間にでもそなえとけ。」
夢かと思った、本当に父は私のこと認めてくれていた。今まで考えていたことがばからしく思えてきた。
涙が出そうになるのをこらえながら、
「うん、喜んでくれるかな。」
と言うと、
「喜んでくれるにきまってるよ。自分のやりたいこと通して、ちゃんと結果だしてるんだから。親父はそういうやつが好きだったよ。」
と力強く言ってくれた。

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 車を止め、降りると金木犀のにおいがしてきた。金木犀が好きになったのは、実家にあったからだったことを思い出した。玄関のドアの前に立つと少し緊張してきた。

 けれど、もう大丈夫だ。

「ただいま。」



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