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私達の学びは決して振り出しに戻っているわけじゃない

いつも学びをもらっている『さやかさん』の記事より、またまた色々と学びをもらいました。

↑の記事の中の

『怒りと慈悲は同じもの
愛と憎しみは同じもの
暴力と非暴力は同じもの』

という話があって。
それを読んで1番に思いついたのが、『愛と憎しみ』に関する感情で、ストーカーの存在ってまさしくそうなのかなって様な事をコメントで書いたのですが。
ほら、「可愛さ余って憎さ百倍」なんて言葉もあるし。
ここでいう愛は、高次元の存在がいう愛とというより、もっと恋愛に近い愛のお話かと思ったのだけど。

でも。

さやかさんとやり取りをしていくうち、もっとちゃんと深い愛(高次元が伝える愛)のお話だって分かったんです。というのも、

愛と憎しみ、怒りと慈悲、暴力と非暴力

それらについて、高次元の人達に話を聞いてみたところ、届いたメッセージが

『表裏一体』

と、☯のマークで😳😳😳😳😳
そういえば、昔も、同じメッセージもらってるやん!!!って思って、過去の記事を漁ると、出てきました👇

このときは、お金の話からのそれだったようですが。
テーマは違えど、また同じところに戻ってきたなって思いました。

でも、本当に一周廻ってRESTARTってわけじゃなくて、螺旋状にもう少し深く学べてる気がしているんです。
記事を書いた時よりも、もっと『表裏一体』への理解度が深まっている感じがするんですよね😍

誰だったか、カタカムナって平面で書かれているけど、あれは立体(螺旋)で捉えるものなのではないかって言っている人がいて。
つまり、私達の学びも平面でみると、振り出しに戻っているように見えるけど、多角的にみると、スパイラル状に伸びていっているんじゃないのかなって、いや、仮定の話や私の想像ではなくて、あの時、確かに高次元からのメッセージとして、そう受け取った気がします。
(途中で、私の意識なのか高次元からのメッセージなのか分からなくなっちゃうんです😅)


さて、本題です。
愛と憎しみやその他の事が、同じ(つまり表裏一体)って話の私なりの解釈なのです。

これも、スピリチュアルな事を感じられるようになったばかりの頃、神社で教えられた話なのですがね。

そこの神社には、凄く歪に曲がったもみじの木があるんです。
人によって、その木をみて、自然がおりなす美しさに驚嘆するし、また別の人は、こんな歪に曲がって。と、忌み嫌ったり、蔑んだりする。

同じ物を見ていても、人によって、全く逆の捉え方をするわけです。

これは、人によっての捉え方というだけではなくて、同じ人物であっても、その時のコンディションや状況によって、真逆の感情が湧くことだってありますよね。

例えば、大好きな芸能人がいたとして。推し活にも励んでいたのに、自分の嫌いな異性と付き合ったと知るやいなや、その芸能人を大嫌いになったり、その相手も、自分が好きな芸能人だったなら、益々推し活に励んだり。

それこそ、我が子のイタズラに対しても、同じ事をしていても、こちらのコンディションや状況によって、まぁまぁ、こんな可愛らしいことしちゃって🥰と、微笑ましく見れるけど、こちらの体調が悪かったり、時間がなかったりすると、途端にその行動が怒りの元になってしまいます。

どちらの例えも、行動としては同じなのに、こちらの感情の置き方というか、捉え方というか。そういうもので、全くの別物になるわけです。

ごめんなさい。ここまで書いておきながら、どうまとめればいいのか、言葉が見つからないのですが、つまり、物事に対して、どこにフォーカスするかとか、どれだけの距離感で見つめつか(捉えるかというべきかな?)によって、その物事への出口が全く逆のものになっているだけで、もっと俯瞰して物事をみたり、先入観なく(というのはとてつもなく難しいのだけど)見ると、全ての事を愛をもってみることができるのかなって思ったり。

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