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恋するものは狂っている
(傷だらけの恋愛論 第三回)
「恋の病」について
今回は「恋の病」について考えてみたいと思います。
人を好きになったとき、常にその人のことが頭から離れず胸が苦しくなったり、なにをしても手につかず、気づいたらその人のことばかり考えてしまうことがあります。
恋愛経験がまだ少ない思春期の頃は特に、自分の思い通りにならない感情に戸惑った経験のある人は多いでしょう。私も初めて恋をしたとき、自分は病気になってしまったのではないかと心配したことを思い出します。
恋をしたとき、体や意識は確かに普段とは違う状態になっているような気がしませんか。そのとき、私の体になにが起こっているのでしょう。
簡単に前回のおさらいをすると、恋に落ちるのは、私の予測していなかったような他者が目の前に現れたときでした。そして、一度その人のことが気になり始めると、頭の中で勝手にその人のイメージが膨らんでいって、私自身の妄想と混ざり合うのです。
すると私の頭の中のイメージは、現実のその人をそのまま反映したものではなく、曖昧でぼやけたイメージになります。そして私は自分の理想をそこに投影しているのです。
イメージがぼやけているのは、その人のことがまだ完全にはわからないからでもあります。だから、私はその人のことをもっと知りたいと思うのです。知って、本当はどんな人なのか、確定させたい。そしてなにより、「その人が私に気があるかどうか」を知りたい。
そのことが気になって頭から離れなくなっている状態を「恋の病」と呼ぶわけですが、これは以前から私が「鬱で死なない(後編)」などで何度も書いている「退屈と鬱」の問題ととても近似しています。
退屈が鬱になってしまう理由は、何にも興味を持てないとき、頭の中で無限の自己観察が始まってしまうからです。それは次第に自己否定の悪循環へ陥っていきます。閉じた思考の中では、自分を肯定する根拠を見出すことができず、自分が生きている意味は無いのではないか、という考えに囚われてしまうのです。
それと比較してみると「恋の病」は、自分ではなく、好きな人のことしか考えられなくなって、他の何にも興味を持てなくなった状態であるといえます。そして「あの人は私に気があるのか」という問いの答えを探して、頭の中で思考が無限に錯綜します。
しかし、それに答えを出すための根拠がまだ揃っていないため、いつまで経っても答えは出せず、思考はあちらこちらへ分裂して、悶々と苦しみ続けることになります。
鬱のときと同じように、思考が錯綜すると、時間の進み方がおかしくなったように感じたり、自分の意識がズタズタに引き裂かれるような苦しさを覚えます。その上、私の頭の中を占めているのは自分自身ではなく「あの人」なのです。それはまるで、自分の体がその人に奪われてしまったかのようにさえ感じます。
「あの人は私に気があるのか」という問いの答えは、いくら自分の中を探しても見つかるはずがありません。あの人だけが、私の求めている真実を持っている。そのとき、私の主体性は隅に追いやられて、好きな人の意志に従うことしかできない客体になってしまったと私は感じているのです。
増殖する君の「意味」
この苦しい状態を抜け出すためには、真実を確かめて、私の世界に入ったヒビを修復するしかありません。
ここで、勇敢な人ならばすぐさま直接確かめに行ったり、告白することもできるでしょう。しかし慎重な人は別の方法を取ります。観察です。
あの人がもし私に好意を持っているのならば、それは必ず言動に表れているはずです。それを見つけ出さなければ、と私は思います。きっとどこかにサインやメッセージがあるはずだ、と。
君がもし私のことを好きならば、きっとアイコンタクトとか、微笑んだりだとか、なにかそういうサインを送ってくるはずです。君がもし私のことばかり考えているのならば、私が君を見てしまうのと同じように、私の方をつい振り返ってしまうはずです。
そうして、私は好きな人の行動に「意味」を見出そうとします。ふと目が合った瞬間、それがたまたま視線がぶつかったわけではなく、私に向けたアイコンタクトなのではないか、と考えるのです。きっとそうに違いない。すると、その人の一挙手一投足のすべてになにか意味があるのではないかという気がしてくるのです。
好きになる前は目に留まりもしなかったような些細な仕草や、ちょっとした言葉遣い、表情の動かし方、それらの全てが、私の中で「意味」を持ち始めます。そしてそれはどんどん増殖していきます。どんな細かいことも目に留まるようになって、何ひとつ見逃すことができなくなっていくのです。
さらにエスカレートすると、飛躍した論理で「意味」が生まれ始めます。あの人の好きな小説の主人公が自分に似ているのではないか、とか、さっき言い間違いをしたのは私のことを考えていたからではないか、といった具合に。
恋するものは狂っている
例えば自分と好きな人の使っているペンが同じだったとき、恋するものにはそれが偶然なのか、それともその人からのメッセージなのか、正しい判断ができません。恋するものにはすべてがメッセージに見えているのです。
さて実は、こうして目に留まるものすべてに対して過剰に意味を見出してしまう状態には名前がつけられており、「徴候知」と呼ばれています。日本では精神医学研究者の中井久夫さんがこの徴候知を重視したことで知られています。
徴候知は恋愛だけではなく、人によっては様々な場面で経験している知覚のあり方です。極端ですが一番わかりやすい例は、探偵のシャーロック・ホームズです。ドアを開けるとき、普通の人はドアノブの形状にさえ対して注意を払いませんが、ホームズはドアノブのすり減り具合から、その家に住んでいるのがどんな人なのか推測を立てることができるのです。
彼にとっては、目に映るすべてのものがメッセージです。なんだか「やさしさに包まれたなら」みたいですが、あの曲の歌詞で歌われているような日、なぜかいつもより景色が鮮明に見えて、目に映るすべてのものが意味を持ってそこに存在しているのだと感じられるような日が、みなさんにもあるのではないでしょうか。意識していないだけで、誰もが徴候知の経験をしたことがあるはずです。
芸術人類学者の中島智さんはこの徴候知を、芸術家に不可欠な資質として頻繁に取り上げています。
徴候知とは、カイヨワの言うところの「隠された原理」をいま見えている現象のなかから、その徴候(痕跡)を読み取っていくことにおいて推論していく知覚作用のことで、有史以前の狩猟生活から現代の日常生活まで、ことに恋愛や技芸、医学的症候学などに顕著にみられる知性なのである。
見えているものの中から、痕跡や徴候を読み取ることで「隠された原理」を見つけ出す能力。それが徴候知です。例えば画家が風景を描くときにも、普通の人がぼんやりと景色を見るときとは違い、徴候知を使って景色を見ることで、風景を読み取り、自分自身の中に再構築しているのです。
引用した文章の中に「医学的症候学」とありますが、徴候知は統合失調症のの症状としても見られるものです。統合失調症の患者は、自分の意志とは無関係に、あらゆるものに意味を見出しすぎてしまいます。この点で、恋の病の症状と似ていると言えます。
徴候知は芸術家が創作をする際には必要な素養かもしれませんが、多くの人にとって、情報が過剰に頭に入ってきてしまう状態が長く続くのは苦しいことです。
普通、人は既に知っているものは知っているものとして、それ以上詳しく見たり調べたりすることはありません。しかし徴候知は、あらゆるものに対して、なにか微細な変化がないかを検出しようと常にセンサーを働かせ続けている状態です。そのようにして恋の病は人を狩り立て、疲弊させるのです。
今回のまとめ
一度意識してしまうと、他の人だったら素通りしてしまうような何もないところにも、過剰に意味を見出してしまう、ということが恋の病の本質です。
無から有を生み出すという狂気、それは芸術と恋が共通して持っている特徴のひとつと言えるのではないでしょうか。その根底にあるのが徴候知なのです。
さらに付け足せば、そのような自己の変質を感じ取ったとき、人は「自分は狂っているのではないか」という疑念にとらわれます。そしてその自己観察は、さらに人を狂わせるのです。
FOU 狂人
恋愛主体はしばしば自分が狂っている、あるいは狂いつつあるという思いに襲われる。
1 恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。わたしは自分のイメージを二分しているのだ。自分の眼にわたしは気のふれたものと映る(わたしは自分の錯乱のなんたるかを識っている)のだが、他人の眼にはただ変っているだけと映るだろう。わたしが自分の狂気をいたって正直に物語っているからだ。わたしはたえずこの狂気を意識し、それについてのディスクールを維持しつづけている。
このような狂気に狩り立てられて、恋するふたりの欲望がどのようにぶつかり合うのか、そしてどのように和解するのか、ということについて次回は書いてみたいと思います。
それでは、今回はこのへんで。