「わるいことを考えてしまう自分」が好きじゃないあなたへ
「わるいことをしたり、言ってはいけないのはもちろん、わるいことは考えてもいけない」
と、僕は無意識に信じていた。だから、よくない考えが思い浮かぶとその思考をなんとかしなきゃいけないと焦り、そんなことを考えてしまう自分に苛立った。
「こんなことが頭をよぎる自分には、よくないことが起きるんじゃないか」
と不安になった。あるいは「こんなことを考えてしまうような自分だからうまくいかないのだ」という嘆きが始まったりするのだった。
よくないことを考えたり、どんよりした感情を抱いたりすると、それが自分や自分の周りの運命に、わるい影響をふりまいているような、そんな罪悪感を感じてしまう。
でも、その罪悪感は果たして本当に必要なんだろうか。わるい思いや感情を抱くことで、僕らは何かよくないことを本当に引き寄せてしまっているのだろうか。
そうじゃない、という話を今日はしたいのだ。
ここからすこし、きたない話をする。苦手な方には申し訳ないが、でもこの話はきたなくないと意味がないので、あえてこの例を使わせてほしい。
僕らは毎日、排泄をする。そして僕らはその排泄物を「きたない」と感じる。
でもその排泄物は、自分の身を離れるその直前までは自分の中にあったものだ。いまだって体内に抱え込んでいる。でも不思議なことに、腹のなかにある排泄予定物を、僕らは「汚い」とは感じない。
自分の身体から切り離されたとき、僕らは自分の一部だったものを「汚い」と感じるようになるのだ。爪や髪もそうだ。床に落ちているかつて自分の一部だったものを見つけても、それはもはやゴミとみなされる。
そしてこの反応は、ごく自然なものだ。自分の肉体を細菌から守るために、永い年月をかけてDNAに刻み込まれてきた経験知だ。いいもわるいもない。ただの反応だ。
僕らがつい抱えてしまうわるい思考や感情は、排泄物に似ている。そして、そういう思考や感情を眺めたときに感じる嫌悪感も、僕らが排泄物をみて咄嗟に「きたない」と感じる反応に似ている。
つまり、自分のなかにわるい思考や感情があると気づいて、それを「いやだな」と感じられたということは、その思考や感情はすでに自分とは切り離されていて、まさに排泄されようとしているということなのだ。
僕らはどうしたって、考えたくないことを考えてしまう。抱きたくない感情を抱いてしまう。それは、僕らが毎日生きるためにどうしたって食べてしまうことと、そして食べたからには排泄してしまうことと同じくらいあたりまえで、自然な生理現象にすぎない。
むしろ、いい経験をたくさん食べ、精神に栄養を補給すればするほど、吸収されずに排泄されるものだって増える。
自分のなかに蠢くいやな思考や感情をみつけたときは、
「ああ、デトックスがすすんでいるな」
と考えればいい。せっかく精神から切り離された老廃物を、わざわざ自分の中に取り入れる必要もないだろう。
普段からあなたは、とくべつ意識することもなく「いいこと」をして生きている。ちゃんとルールを守り、列に並び、誰かが何かを落としたら拾って声をかける。そもそもあなたは働いている。仕事や家事は必ず誰かを助ける。そういうことを何も意識せずにやっている。
あなたは日々、学んでいる。それも仕事や家事を通して誰かに貢献するためだ。それが当たり前だと思ってやっている。自分のためだと思ってやっている。
意識にすらのぼらないくらい、当たり前にいいことをして生きている。それがあなただ。
それなのに僕らは、ふと頭に思い浮かぶよからぬ考えや感情のほうばかりを気にして、「こんなこと考える自分はいやだ」と嘆いてしまう。
それは僕らの脳がバグっているだけだ。文化の進化に脳の進化が追いついていないだけだ。その思考や感情は、自分で眺めることができた時点で、自分自身ではない。
排泄されていくものよりも、今日、これから食べるおいしいもののことを考えよう。