『日常を眺めて』4通目by kenken 結局correspondence
Χ(カイ)さんから軽やかなお返事が届きました。
モノローグ的にnoteを書くことは、材料の買い出しから、調理、盛り付けまで全部一人でやっているようなもので、それはそれで楽しいものの、どうも気が乗らないこともあります。それに比べると、このような「文通」はとても気楽に感じます。通りかかった八百屋さんで旬の野菜を見つけたから買ってきたよ、今日はなんとなく中華な気分だな、前にあるお店で出してもらったこんな料理が美味しかった…。そういう投げかけがあると、自然に応じることができるように。そして、ちょうど冷蔵庫にあったあれと合わせると良さそうだな、ついでにこの前作ったこれもどうぞ、といった調子で、手元にあるものと組み合わせることもできたりもする。一問一答じゃないという、型としての緩さもいいですね。教えてもらったお店の料理の話は、また今度のレシピに応用しようかな、でも構わない。
「すみません」と「ありがとう」
こうやって受け取ることから、あるいはすでに受け取っていることに気づくことから、correspondenceは始まるのだと思います。インゴルド自身も、前回ご紹介した講演の中でこう言っています。(日本語訳は進んでいませんが、こんな形で小出しにしていくことならいくらでもできそうです。笑)
この世界をともにしている、人々や人間以外の存在に、わたしたちは自身の存在やそのあり方を「負っている」。言い換えれば、わたしがわたしとして存在しているのは、わたし以外のすべての存在のおかげである。そういう世界観が、インゴルドの語るcorrespondence論には内包されていると思います。
これってとても仏教的とも言えるのではないでしょうか。
英語ならThank you. / I'm sorry. / Excuse me. とまったく別の言葉を返す場面のすべてに対して、日本語では「すみません」で済ませることができてしまう。Thank you.の場面であれば、「謝る」代わりに「ありがとう」と「感謝」を伝えよう、という言説に触れてはっとして、ぼくもそれを意識していたことがありました。でも、元々「すみません」は、「神様仏様に対してまだ十分にお返しできていません」という「反省」の言葉であると聞いたことがあります。
correspondenceは、この本来の意味での「すみません」を感じながら、「ありがとう」を返していくような振る舞いなのかもしれません。
書くこと
記述すること
さて、書くこと、言葉にすることについて。
『メイキング』の中で、インゴルドはcorrespondenceとは次のようなものであると語って(定義して?)います。
correspondenceは、世界を記述したり、表象したりするためのものではない。そして、上で引用した講演の中では「人類学とはcorrespondenceの科学だ」とも言い切るインゴルドの主張は、ギアツの「厚い記述」(thick description)に象徴されるような、記述するということ(こそ)を重視する立場とは一線を画すもののように受け取れます。記述することは重要ではないと言っているわけではありませんが、第一ではない。
とはいえ、学術的な貢献のためではなく個人的な探究としてcorrespondenceについて実践しながら考えているぼくも、こうして「書く」ことに興味が出てきたわけです。ここで、書くためにcorrespondenceする、ではなくて、correspondenceしていると書きたいことが出てくる、ということがポイントな気がします。(文通の場合は書くこと=correspondenceですね。)
TellingとArticulation
インゴルドつながりでもうひとつだけ触れておくと、『メイキング』の中でマイケル・ポランニーの「わたしたちは語りうることよりも多くのことを知ることができる we can know more than we can tell」(『暗黙知の次元』)という言葉が引かれています。(おそらくウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの〜」の系譜ですよね?勉強不足ですみません、、)
ここでインゴルドは、ポランニーによる「個人的な知識」と「分画化された知識」という区別には同意しつつ、「語るtelling」と「分画化articulation」を同一視して、語られなかったことが暗黙の何か(暗黙知≒個人的な知識)であるとする立場を批判しています。むしろ、語ることと分画化することは真反対である、なぜなら英語の"telling"の2つの意味、語る(伝える)ことと知る(察する)ことは、個人にとっては同一だから。
該当部分、の原文を載せておきます。(日本語版だとp.230ですが、誤訳になってしまっていると思います。)
これ、「書いて」みてよくわかったのですが、ややこしい議論ですね。
tellingとarticulationが「真反対」であるという論拠が弱いように思います。
別の箇所では、「語ること自体が、明確化や詳細化になじまないパフォーマンスのあり方」だとも言っていて、明らかに両者を対置させようとしているのはわかる。感覚的には理解できるし、同意したい気もする。
ぼくらが留学中に何度となく触れた、
Can you tell us a little bit more about that?
Can you articulate it?
といった表現は、どちらも「もう少し聞かせて」という投げかけです。
ですが実は、前者は語りtellingの続きを促し、後者はより詳しい説明、より細かい分画化articulationを求めている。ここには明確な差異がある。というように読んでみると、なかなか重要な指摘なのではないかと思えてきます。
長々書きましたが、tellingとarticulationの対比があるとしたら、ぼくはどちらかというとtellingの方をしていきたいなと思います。インゴルによれば、それがcorrespondenceの実践でもある(引用最後の部分)わけですし。という表明だけしたところで、話をなんとか「書くこと」に戻しますね。
知の尖端で書く
これ、すごい文章だな、と思うんですよね。なんというか、まず熱量がすごい。そして、これが「はじめに」に書かれていることもすごい。この本はこのようにして書いたのだ、という宣言であり、読者への檄文でもある。
それはともかく、ここで言われていることを上の議論に引きつけてみると、書くということはarticulateすることではない。個人的な次元の知、その「尖端」、つまり2つの意味での"telling"の際にあるものを、なんとかして「語る」ことなのだ、ということのようにも読めます。
Χさんの言う「「書いた」と「書いていない」の間の無限のグラデーション」の中には、こういうヒリヒリする部分も含まれている、とも言えそうです。さらにΧさんの言及に乗っかると、フィールドノートは、目の前で起きていることをとりあえず「知った」ことにして記述するもの、というか、どうにか記述することでいったん「知った」ことにする作業の集積。エスノグラフィーは、それを元に「書かかれる」もの、といったところでしょうか。
想定なき予期?
すでにだいぶ長くなってしまいましたが、「先入観」や「予測」のお話から連想したTDネタをひとつ。共同学科長の一人だったJohn Brruceが、一時期
"expectation"と"anticipation"の話をよくしていましたね。辞書的な意味としての正確さは置いておいて、彼のニュアンスでは、expectation=期待、anticipation=予期といった意味合いだっと思います。これだけだと違いがわかりづらいですが、expectationには、"meet expectations"(期待に応える)のように、「想定された基準を満たす」といったニュアンスがあるのに対して、anticipationの方は、「何かが起こるという予期は持ちつつも、それが何であるか、どのようにして起こるのかについては可能性に開かれた状態にある」という含意がある、ということだったと解釈しています。
藤田一照さんの坐禅の話と重ねてみると、坐禅とは、真の「くつろぎ」とは、いわばこの「想定なき予期」に全身を浸すようなことなのかもしれないと想像しました。
correspondenceの条件
correspondenceは同じタイミングに生きていることが条件となるのか?
これはちょうどぼく自身も最近考えていたことでした。実際、先日の金沢での講演の際、質疑応答の中でインゴルド本人にこのことを尋ねてみました。ただ、そのとき実際に質問したのは、「(講演の中で言及された)後代によるrepaintingやretellingといった形で(芸術が)世代を超えていくことと、ご自身が提唱されているcorrespondenceという概念は、どのような関係にありますか」というふわっとしたものでした。それでも、ありがたいことに丁寧に答えてもらったのですが、その内容を一言にまとめてしまえば、「似ている部分がある」ということでした。どのように似ているかというと、どちらも縄のメタファーで説明できる、と。たしかにcorrespondenceについては、『メイキング』で、世代については近著の『世代とは何か』の中で、いずれも縄のメタファーを用いて語られています。ただ、correspondenceは「互いに絡まりあう〔一対の〕線」として、世代は、(堆積層的な世代観へのカウンターとして)順次継ぎ足される藁(複数の世代)が一定の間「協働」することを
示すモデルとして、少し意味合いが異なるものの、どちらも「時間を共にすること」のイメージとして縄を持ち出していると言えそうです。
講演のキーワードのひとつが"contemporary"(とは何か)だったので、回答がそっちに引っ張れていったという側面もあったかもしれませんが、これではΧさんの問いに答えられません。ぼくとしても、本当に聞いてみたかったのは、「世代を超えたcorrespondenceは可能なのか、可能だとしたらそれはどのようなものか」ということだったのだと、後に思い至りました。
インゴルド自身にこの問いを投げかける機会は逃してしまいましたが、「世代を超えたcorrespondence」について、その後ぼくが考えていることをお話してみますね。
Χさんが、すでにこの世を去った人が書き残したものを読むことを、その著者との「対話」だと捉えているなら、それもcorrespondenceのひとつのあり方だといってよいのではないでしょうか。「今の自分が得ている知恵は先人の試行錯誤のおかげであることに感動して震え、涙すら流してしまいます。」というのは、まさにΧさんが、自身の存在(のあり方)を先人に負っているという感覚を得ているということでしょう。「縦の継承」、つまりバトンを「受け取った」と感じている。冒頭の引用のとおり、「負っているもの」、「受け取った」ものを、世界に対して返していくことがcorrespondenceなのだとしたら、Χさんは間違いなくcorrespondしている。でも、文通のように送り主に手紙を返すというよりは、それは「世界」に対して、「同じ時代を生きる人」や、「未来の人」に対して「返して」いくことなのかもしれません。
correspondenceという言葉が、哲学書のような厳密な定義がされていない(※されているのをぼくが読み落としているだけだったらすみません)のをいいことに、だいぶ好き放題拡大解釈しているような気もします。でも、"Transdisciplinary Design"同様、correspondenceもまたひとつの空箱(empty signifier)、とまではいかずとも、余白の大きい箱として、いろんな角度から眺めたり、転がしたりしていきたいなと思ったのでした。(カタカナ表記や「応答」といった訳語を進んで使う気にならないのも、そういう心理がはたらいているからかもしれません。)
今回はだいぶ思索的になりました。そして相変わらずデザインをまったく語っていない。(笑)日常を眺めながら、引き続き気楽にやっていければと思います。