見出し画像

日々の運行はつづく

居心地のよい記憶

じゅんさんの展示は、居心地のよい空間だった。
そこを立ち去るのが名残惜しい。
「まあゆっくりして行きなよー」
って展示全体から声をかけられているような気分になる。

展示の中に身をおくことで、
じゅんさんの世界のとらえ方や
その蓄積としての記憶を
共有してもらっているような感覚がある。

そしてその感覚の心地よさは、
何よりも写真一枚一枚の雰囲気によるものだと思う。
少し大げさな表現かもしれないが、
「生を肯定している」ような感じがする。


記憶を想起させるもの

そして写真の展示のしかた。
縦の写真、横の写真、正方形の写真。
大小も様々、同じ写真が異なるサイズで複数枚あったりもするし、
プリントされてから時間の経っている写真も少なくない。
そんな写真たちが壁面上に広げられている。
その配置には明確な意図は読み取れない。

壁は向かい合わせの二面あり、
当然同時に両面と正対することはできないし、
一面でさえ、目一杯引いても全体は見渡せない。
視野に収めることはできても、まとめて「観る」ことはできない。

雑多と表現できなくもないが、無秩序ではない。
配置に規則性のようなものが見いだせない、
グループ分けのような処理ができないからこそ、
写真と写真のあいだの関係性を
ぼんやりと探っていくような眺め方になる。

個々の位置関係には明確な意味が読み取れなくても
全体としてこうなっている、
ということには必然性があるような。
でもなぜそのように感じるのかよくわからないような、
そんな体験がまるごと心地よく、
記憶っぽい感じにつながっていたと思う。

記憶というもの、そして生というものは、
整理整頓されてはいないし、
因果律にしたがうものではない。
そんなことを連想した。

床にも写真たち


前後の時間

この展示はどのようにしてこの形になったのか。

プリントしてきた写真を直接壁に貼るということだけ決めていた。
設営にまる一日使えることがわかっていたので、
まず床に写真を広げて、感覚にしたがって壁に並べていった。
その途中で、床に広げられた写真というのもいいなと思って、
一部をそのまま床の上に残すことにした。

じゅんさんが話してくれたのは、
だいたいこんな感じだったと思う。

どんな展示にも設営はあり、
制作にはもっと長い時間がかけられている。
設営だって制作の一部だととらえることもできるが、
写真表現の展示が
即興的な設営作業にこれだけ
委ねられることはなかなかないんじゃないか。
そしてその設営時間が展示の中にそのまま残っている。

制作が設営までにじみ出し、
設営が展示までにじみ出ている。

連続的な時間の流れが、
切り分けられることなく流れのまま
表現されているように感じた。

じゅんさん


写真との相似形

だいぶ前にプリントされたであろう写真にも
虫ピンが刺さっていることに心が動いた。
自分だったら、こういう写真に
ピンの穴を空けることには勇気がいると思う。

この一枚を撮り、プリントすることも、制作の一部。
そこから経過した時間が染み付いている写真が、
展示を構成する一枚として固定されている。
展示期間を終えても、
写真にはピンの跡が展示の記憶として残る。

この一枚のように縁ではなく、プリント部分に打ち込まれているものも。

じゅんさんは写真について

瞬間を切り取るというよりも、
もう少し幅を持った時間の流れを捉えるような感覚で撮っている

というようなことを言っていた。

前後の時間、流れとしての時間が感じられる写真。
同じように、前後の時間まで
一連なりの流れとして織り込まれていると感じられる展示。
両端がきっちり返し縫いされたタオルではなく、
ほつれのある手ぬぐいのような。


物語を読み進める

ステートメントを読むのは、まず生身で展示に向き合ってから、にした。
その中の2行。

座っているだけなのに
物語を読み進めているような感覚になる。

自分にはない感覚で、新鮮に読んだ。
車窓越しの景色はたしかに移り変わっていくけれど、
それを眺める自分には、「読み進める」のような能動性はない。
映画を読み進めるとは表現しないのと同じように。

この「物語を読み進めているような感覚」こそが
じゅんさんの世界のとらえ方なんじゃないか。

英語併記の意味も粋だった。

自分は座席から動かずとも、
バスは確実にどこかに向かって運ばれていて、
窓の外ではいろんなことが起きていて、
「車窓からの景色は変わり続ける」。

そんな、時間の移ろいの中で起きている無数の変化のうち、
じゅんさんは自らの視点で見えるものを、
ものの「動き」や「変化」というよりも
時間の流れそのものとして眼差している。

時間というものは
「読み手」の意思とは関係なしに進んでいくのだが、
その進行を、
「日々の運行」を、
映画鑑賞よりも読書に近い感覚で捉えている。

あるいは、
視覚(静止しているものも感知できる)を
聴覚(時間変化としてしか感知できない)的に
使っているのかもしれない。
(「通底している音」として「見て」いる?)

乗り合いバス

あれこれ言葉にしてみたが、
じゅんさんの実際の感覚と
どれくらい近いのか遠いのかわからない。

でも、これだけ気になる感覚を持って生きている人と
同じバスに乗り合わせていると思うと、
なんだか嬉しくなってくる。

もらったお花も展示に添えちゃう感じとか。


じゅんさん

写真展(すでに終了)


ここにもバナナ
言葉と写真


いいなと思ったら応援しよう!