![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/149732716/rectangle_large_type_2_066f9fa0acf6411b66e8650d164b94b4.jpeg?width=1200)
日々の運行はつづく
居心地のよい記憶
じゅんさんの展示は、居心地のよい空間だった。
そこを立ち去るのが名残惜しい。
「まあゆっくりして行きなよー」
って展示全体から声をかけられているような気分になる。
展示の中に身をおくことで、
じゅんさんの世界のとらえ方や
その蓄積としての記憶を
共有してもらっているような感覚がある。
そしてその感覚の心地よさは、
何よりも写真一枚一枚の雰囲気によるものだと思う。
少し大げさな表現かもしれないが、
「生を肯定している」ような感じがする。
![](https://assets.st-note.com/img/1722898185716-Lsbenv3V4I.jpg?width=1200)
記憶を想起させるもの
そして写真の展示のしかた。
縦の写真、横の写真、正方形の写真。
大小も様々、同じ写真が異なるサイズで複数枚あったりもするし、
プリントされてから時間の経っている写真も少なくない。
そんな写真たちが壁面上に広げられている。
その配置には明確な意図は読み取れない。
壁は向かい合わせの二面あり、
当然同時に両面と正対することはできないし、
一面でさえ、目一杯引いても全体は見渡せない。
視野に収めることはできても、まとめて「観る」ことはできない。
雑多と表現できなくもないが、無秩序ではない。
配置に規則性のようなものが見いだせない、
グループ分けのような処理ができないからこそ、
写真と写真のあいだの関係性を
ぼんやりと探っていくような眺め方になる。
![](https://assets.st-note.com/img/1722906980687-WZBcmngKhz.jpg?width=1200)
個々の位置関係には明確な意味が読み取れなくても
全体としてこうなっている、
ということには必然性があるような。
でもなぜそのように感じるのかよくわからないような、
そんな体験がまるごと心地よく、
記憶っぽい感じにつながっていたと思う。
記憶というもの、そして生というものは、
整理整頓されてはいないし、
因果律にしたがうものではない。
そんなことを連想した。
![](https://assets.st-note.com/img/1722862569395-igmV03vVWr.jpg?width=1200)
前後の時間
この展示はどのようにしてこの形になったのか。
プリントしてきた写真を直接壁に貼るということだけ決めていた。
設営にまる一日使えることがわかっていたので、
まず床に写真を広げて、感覚にしたがって壁に並べていった。
その途中で、床に広げられた写真というのもいいなと思って、
一部をそのまま床の上に残すことにした。
じゅんさんが話してくれたのは、
だいたいこんな感じだったと思う。
どんな展示にも設営はあり、
制作にはもっと長い時間がかけられている。
設営だって制作の一部だととらえることもできるが、
写真表現の展示が
即興的な設営作業にこれだけ
委ねられることはなかなかないんじゃないか。
そしてその設営時間が展示の中にそのまま残っている。
制作が設営までにじみ出し、
設営が展示までにじみ出ている。
連続的な時間の流れが、
切り分けられることなく流れのまま
表現されているように感じた。
![](https://assets.st-note.com/img/1722862432201-EgXq64olQc.jpg?width=1200)
写真との相似形
だいぶ前にプリントされたであろう写真にも
虫ピンが刺さっていることに心が動いた。
自分だったら、こういう写真に
ピンの穴を空けることには勇気がいると思う。
この一枚を撮り、プリントすることも、制作の一部。
そこから経過した時間が染み付いている写真が、
展示を構成する一枚として固定されている。
展示期間を終えても、
写真にはピンの跡が展示の記憶として残る。
![](https://assets.st-note.com/img/1722897633214-yLtds5TFwr.jpg?width=1200)
じゅんさんは写真について
瞬間を切り取るというよりも、
もう少し幅を持った時間の流れを捉えるような感覚で撮っている
というようなことを言っていた。
前後の時間、流れとしての時間が感じられる写真。
同じように、前後の時間まで
一連なりの流れとして織り込まれていると感じられる展示。
両端がきっちり返し縫いされたタオルではなく、
ほつれのある手ぬぐいのような。
物語を読み進める
ステートメントを読むのは、まず生身で展示に向き合ってから、にした。
その中の2行。
座っているだけなのに
物語を読み進めているような感覚になる。
自分にはない感覚で、新鮮に読んだ。
車窓越しの景色はたしかに移り変わっていくけれど、
それを眺める自分には、「読み進める」のような能動性はない。
映画を読み進めるとは表現しないのと同じように。
この「物語を読み進めているような感覚」こそが
じゅんさんの世界のとらえ方なんじゃないか。
![](https://assets.st-note.com/img/1722897996163-GhyaXU25ZQ.jpg?width=1200)
自分は座席から動かずとも、
バスは確実にどこかに向かって運ばれていて、
窓の外ではいろんなことが起きていて、
「車窓からの景色は変わり続ける」。
そんな、時間の移ろいの中で起きている無数の変化のうち、
じゅんさんは自らの視点で見えるものを、
ものの「動き」や「変化」というよりも
時間の流れそのものとして眼差している。
時間というものは
「読み手」の意思とは関係なしに進んでいくのだが、
その進行を、
「日々の運行」を、
映画鑑賞よりも読書に近い感覚で捉えている。
あるいは、
視覚(静止しているものも感知できる)を
聴覚(時間変化としてしか感知できない)的に
使っているのかもしれない。
(「通底している音」として「見て」いる?)
乗り合いバス
あれこれ言葉にしてみたが、
じゅんさんの実際の感覚と
どれくらい近いのか遠いのかわからない。
でも、これだけ気になる感覚を持って生きている人と
同じバスに乗り合わせていると思うと、
なんだか嬉しくなってくる。
![](https://assets.st-note.com/img/1722897397721-hfbzIdgLaW.jpg?width=1200)
じゅんさん
写真展(すでに終了)
![](https://assets.st-note.com/img/1722862667652-v4QVwhEpSM.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1722898127863-Rvo8A0OsPk.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1722897538746-sa53PHdrE9.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1722895877991-M8gMtCUop2.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1722897559765-ckY3tuNcar.jpg?width=1200)