科学と聖書にまつわる随想(23)
「長調と短調」
筆者には昔から不思議に思っていることがあります。音楽(西洋音楽)には“長調”と“短調”がありますが、一般に、長調の曲は明るく・楽しく聴こえる曲が多く、それに対し、短調の曲は暗く・もの哀しく響く曲が多いのはどうしてなのでしょうか? 一体、そのメカニズムは何なのでしょうか?
長調と短調の違いは、主和音の音程で言えば第3音が半音違うだけです。長調の主和音は「ド・ミ・ソ」で、音程がドとミの間が長3度(全音+全音)、ミとソの間が短3度(全音+半音)です。一方、短調の主和音は「ラ・ド・ミ」で、ラとドの間が短3度ですから、要するに、長調と短調では長3度と短3度の上下関係が逆になっているというだけの違いです。
“上下関係”という言い方をしましたが、ピアノの鍵盤で言うと右の方の周波数が大きい音を「高い音」、左の方の周波数が小さい音を「低い音」と一般に表現します。周波数の大・小も、一般には“高い”・“低い”で表現するのと通じていますが、どちらが元かはよく分かりません。鍵盤は横に水平なのに、どうして“高い”・“低い”と上下を表す言葉を使って言うのでしょう? 東京行きの列車を“上り”、東京発を“下り”と表現するのと、なんだか似ている気がします。ちなみに、英語でも高い音は“high tone”ですから、これは文化に依らずに共通する現象のようです。ちなみに、パイプオルガンの場合は、低音のパイプほど太くて長く背が高い訳ですから、音の高低とはイメージが逆になります。コーラスでも高音域の女声よりは、低音域の男声の方が一般に体が大きく背が高いですし、弦楽器にしても最低音のコントラバスが一番大きくて背が高いです。
いずれにしても、音の高・低が、物理的な地面からの高さに自然に対応するとすれば、和音の第3音が半音下がるということは、物理的な高さを下げることに繋がると言えるでしょう。つまり、音の高さを段々上げて行くことは、物を持ち上げて行くことに繋がり、逆に、音を下げて行くことは物を下に降ろすという動作とリンクする、ということになります。物理的な高さを上げることは物のレベルを上げること、高さを下げることはレベルを下げることに通じますから、音の高さを上げることは気分を高揚させる向き、下げることは気分を鎮める向きの作用に繋がる、と言えるでしょう。実際、何かに興味を持って覗き込もうとするときに「ン~」と出す声は下から上へ、ガッカリしてシュンとなる時の「ン~」は上から下への声になってしまいます。つまり、音の上下関係は、上(上昇)が陽、下(下降)が陰という対応で、それが人の気分や感情とも関わっていると言えると思います。これが、長調が明るく短調が暗い、というのと何か関係があるような気がします。
音の高い・低いは周波数の違いですが、周波数が違うということは、1秒間の振動数が違うということで、したがって、1周期の時間の長さが違うということになります。ということは、音の高さは、物理的な高さ、つまり、空間的な指標とも、また、時間とも関わっていることになります。これは、空間と時間が無関係ではないことを示唆しているようです。これはまさしく、相対性理論が到達するところではありませんか。そもそも、上下の概念が生まれて地面からの高さというものが議論になるのは、重力によって私たちが下に引っ張られているからでしょう。まさしく、その重力の問題に取り組んだのが一般相対性理論です。
しかし、時間と空間が無関係ではないことは、そもそも、どちらもが“神(創造主)”によって造られたものであることを考えれば、至極当然とも言えるでしょう。この世界、つまり、この空間がやがて新天新地に造り替えられるとすれば、時間もまた新しくされるに違いありません。私たちの時間の尺度と“神(創造主)”の時間の尺度は異なっていることを、聖書ははっきり記しています。