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科学と聖書にまつわる随想(15)

「テロメア」

 私たちの体は無数の細胞が集まってできていて、常に細胞分裂を繰り返して新しい細胞が生まれ新陳代謝が行われている、ということはご承知の通りです。細胞がどれくらいの周期で入れ替わるのかは、体の部位によっても違いはあるでしょう。皮膚や爪のように、確かに頻繁に細胞が入れ替わってるに違いない、と実感できる部位もあれば、脳の神経細胞などは、成長期を過ぎれば後は減る一方と考えられていたのが、実はそうでもないということが最近になって明らかになった、という話も聞きます。いずれにしても、体の細胞が全部入れ替わるだけの期間が過ぎても、私は以前として私であり続けているということは、“私”という存在は肉体にある訳ではない、ということは確かだと言えると思います。

 筆者は生命科学の専門家ではありませんので聞きかじりの知識ですが、細胞が細胞分裂をする時、核の中に染色体が現れ、それが2つのグループに分かれてそれぞれが核になり、細胞壁がくびれて2つの細胞に分かれる、という過程を経て分裂が進みます。染色体が2グループに分かれる際、染色体中のDNAが複製される訳ですが、2重らせんになった細長いDNAの末端の部分はきちんと複写合成されず、端っこのある長さが切り捨てられてしまうそうです。そして、分裂を繰り返す度にその端っこ部分が少しずつ短くなって、ある程度短くなってしまうと、もうそれ以上分裂が起きなくなる、ということのようです。このDNAの端っこ部分のことを“テロメア”というそうです。

 “テロメア”は、“命の回数券”とも表現されるようです。細胞が細胞分裂できず、新陳代謝が行われなくなったとしたら、傷が付いても修復ができない訳ですから、命はそこまでということになるのはやむを得ません。細胞分裂が一連のプロセスを経て秩序正しく実行されて行く様子を見ると、そこには明らかに“プログラム”が起動して働いているのであって、決して偶然に事が進行しているのではない、ということを改めて思わされるとともに、DNAの複写作業には不完全さ(別の言い方をすればエラー)が付き物であるので、初めからそのことを見越してそのための対策をも仕込まれていた“プログラマー”の配慮の奥深さに感服せざるを得ない、と思います。

 エラーが生じることは、ノイズ(雑音)が混入すること、と言い替えることができます。何らかのノイズが入るのは、私たちがある温度の空間で生活している以上、避けることのできないことでしょう。絶対零度の世界でない限り、物質を構成する原子・分子は温度に見合う振動を行っているので“熱雑音”は付き物だからです。漫画で、群衆が静まりかえっている様子を「シーン」という言葉で初めて表現したのは手塚治虫さんだそうですが、全く無音の状態でも私たちの耳の中の音を感じる器官内では熱振動があるため「シ~」という音を感じてしまうといいます。筆者は無響室の中に入ってみたことがありますが、無響室の中ではなんだか耳がおかしくなった感じがするのはこのためだそうです。

 昨今は、“DX”という言葉が流行っていて、なんでもかんでもデジタル化の流れです。デジタルで情報を伝達する際にもエラーが付き物です。このための対策として、誤り検出・誤り訂正の技術が様々に工夫されています。その基本的な考え方は、伝送誤りが起きた際にそれを検出して訂正するための情報を元の情報に付加して、要するに、情報に冗長性を持たせるということです。QRコードは、四角いコードのかなりの割合の部分が隠れてしまっても正しく読み取ることができるそうですが、それもこのお蔭です。テロメアは、まさにこのデジタル技術における冗長符号に、なんだか似ている気がします。

 “神のことば”として記された聖書の原典は、今となっては残ってはおらず、私たちが目にすることができるのは昔の人々が書き写した写本のみで、しかも、普段読むのは日本語に翻訳されたものです。その書き写しや翻訳の段階においても、やはりエラーが生じたことも十分にあり得ることでしょう。実際、聖書の注釈には、写本によって記述が異なる箇所があることも記載されています。そういう箇所も一部にあるにはありますが、しかし、ほとんどの大部分は一致して同じ内容で残されているということは、考えてみれば驚くべきことではないでしょうか。紙も印刷機も、もちろん、コピー機も無い時代に、多くの様々な人物の手によって、何度も何度も書き写されてきたであろうにも関わらず、です。聖書に“テロメア”に当たる箇所は一つも無いと言えるでしょう。

 私たちの体の細胞に“テロメア”が仕組まれていることは、肉体の命には限りがあること、つまり、“罪”によって“死”が入り込むことを、最初の設計の段階から見越した上で、創造主は人を創造された、ということを示しています。“テロメア”を持つということは、命に限りがあるということですが、一方、聖書に“テロメア”は無いということは、“神のことば”は永遠に残る、ということを意味するのではありませんか。

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

(マタイの福音書24:35 )

 DXでデジタル化・ペーパーレス化することは仕事の効率向上には有益だと思いますが、“テロメア”技術による冗長性に頼り続けていると、思わぬ落とし穴に落ち込んでしまう虞があるような気がしてなりません。聖書が記された時代には紙はまだありませんでしたが、手で文字を書き写すというアナログ技術に依存していたおかげで、何千年という時を経ても記録が残されているのです。しかし、今や、フロッピーディスクに保存したデータを読み出すことも容易ではありません。3.5インチならまだしも、筆者が学生の頃には8インチのフロピーディスクを使っていました。そんなのはもはやドライブさえ入手できませんし、MOディスクに保存したデータは、もう諦めるしかありません。DVDですら、もはや怪しいと言われています。紙なら、多少汚れたり破れたりしても、修復して書いてある内容を判読することもできるでしょうが、ハードディスクは傷が付いたらお仕舞です。アナログのLPレコードなら傷が付いたとしても、ノイズが乗るだけで一応音楽を聴けますが、デジタルのCDは傷が付いたら再生できません。
 世の終わりが来るのがいつかは分かりませんが、このまま全てがペーパレス化されてしまうと、仮に100年後の未来があったとして、その時代の人には今の時代のことを知る手がかりが何も残されていない、というような事態に陥ったりしないか、というのは杞憂でしょうか?


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