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科学と聖書にまつわる随想(12)

「宇宙人はいるか?」

 UFOの話題は、衝撃映像を集めたテレビ番組などでもよく取り上げられることがあります。しかし、近年はフェイク動画を誰でも簡単に作り出すことができるようですから、よくよく注意が必要だと思います。UFOとは未確認飛行物体(Unidentified Flying Object)のことですから、何だか正体がよく分からないものが空を飛んでいたら、言葉の定義に依れば、それはとにかくUFOであることには違いはありません。夜に明るく光るものが空を走って消えたとしたら、流れ星なのか、人工衛星なのか、隕石や火球なのか、すぐには正体を確認することは困難な訳ですから、そういう意味では、宇宙人が乗っている円盤かどうかは別として、UFOは存在する、と言うことはできることになります。現象の全てを知ることができない以上、“未確認”なものは必ず存在する訳です。

 ある企業が自社の独自性をPRするためのキャッチコピーに「“どこにも無い”がここにある」というのがありました。また、ある女子大学のテレビCMの台詞に「“どこにでもいる女の子”なんて、どこにも居ない」というのがありました。これらも、“UFOはある”というのと同じように、言われてみればご尤も、という逆説的な正論と言えるでしょう。

 それと同じような理屈で言うならば、地球上に住む我々人間も、地球は宇宙の中の一惑星なのだから宇宙に住んでいる訳で、そういう意味では“宇宙人”であることには違いありません。ですから、“宇宙人はいる”、と言っても間違いとは言えないでしょう。ただ、これは単に屁理屈で、問題は、地球外生命体としての“宇宙人”が存在するのか、ということですよね。

 進化論を信じている人たちは、宇宙には無数の銀河や星があるのだから、確率論として地球と同じような環境の惑星が他にも存在して不思議は無いとすれば、そこには人間と同じように進化して知能を持った生命体が居るかもしれない、と考えているようです。小惑星探査機“はやぶさ”のプロジェクトなんかも、そういう考え方に基づいて、生命の起源を知る手掛かりを宇宙に求めて実施されている訳でしょう。

 もし、生命体、つまり、“肉体”と“命”が偶然の産物として現れることができるのだとすれば、確率論的にはそれは尤もな推論かも知れませんが、それもあくまで確率がゼロではないかも知れないというに過ぎません。しかし、既に論じてきましたように、生命体は、ある機能を持って構成された組織体であるということが事実である以上、それが偶然の産物であると主張することは論理的に矛盾しています。“偶然”からは“機能”は生まれません。“機能”にはそれが果たす“目的”があります。“目的”があることは、すなわち、それは“偶然”ではないことを意味しているからです。

 私たちが、この地球上に、創造主によって目的を持って造られたものであることを認めるならば、地球以外の星に人間と同じように知能を持った生物がいるということはあり得ない、と確信することができます。百歩譲って、例えば、何がしかの細菌や微生物のようなレベルの生命体なら、宇宙に存在することもあり得るかも知れません。しかし、私たちのように“神の似姿(かたち)”として造られた存在は、 地球以外の星に存在することはできません。

 なぜなら、もし知性を持ったそういう存在があったとしたら、当然、私たちと同じようにその存在も私たちと同じように“罪人”であって、イエス・キリストによって贖われなければならないはずです。しかし、イエス・キリストはこの地球上に現れました。そして、十字架による贖いが成し遂げられたのは、この地球上の人類の歴史の中でのただ一点のみです。もう一つ別の惑星に行って、キリストがもう一度十字架にかかることはできません。

 私たち地球上に生きる人間のために記された聖書は言います。

「なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」

(ローマ人への手紙6:10 )

「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」

(ヘブル人への手紙10:10 )

 ただ、こういう反論はあり得るかもしれません。「いや、キリストが現れたのは地球だけども、別の惑星にも人間のような存在が居るかもしれない。だから、宇宙開発を行って、その人たちにも福音を伝えなければならないのではないか。」

 しかし、イエス・キリストはこう言われました。

「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。』」

(マルコの福音書16:15)

福音を宣べ伝えるべき範囲は“全世界”であって、“全宇宙”ではありませんでした。

 そう遠くはない未来には、宇宙飛行士にならずとも、お金を払えば誰でもが宇宙旅行をできる時代もやって来ると言われています。地球から離れてみて、“美しき青き地球”を自分の目で確かめて、創造主の御業の素晴らしさを改めてほめ讃える、ということも意義深いことかとは思います。しかし、どんどん上へ上へと飽くことなく手を伸ばそうとするのは、昔の人々がバベルの塔を高く高く築こうとしたのと同じ愚を犯す虞があるのでは、と筆者には思えてなりません。足下のこの地球内にも、まだまだ未知の領域はいくらでも残されているのですから。

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さて、ここからは余談です。
 筆者は“美しき青き地球”と書きました。ヨハン・シュトラウスの名曲に“美しき青きドナウ”があります。一般には、“美しく青きドナウ”と書かれることが多いようですが、日本語の文法に則って解釈すると、“美しき青きドナウ”と書く方が正しいように思います。
 この言葉は「ドナウ川は“美しい”、そして、“青い”。」ということを表現したいのだと思います。しかし、“美しく青きドナウ”と書いた場合、“美しく”は“美しい”という形容詞の連用形ですから、“美しく”は“青き”を修飾することになります。つまり、「ドナウ川は青い。その青さは“美しい青さ”だ。」という意味になり、微妙に趣旨が変わってしまいます。
「美しい青さ」というと、あまり良い感じがしない気がするのは筆者だけでしょうか?


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