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科学と聖書にまつわる随想(2)

「目にみえるものと見えないもの」

 発信者が、あるルール・規則性・特徴・約束に従って意思を伝達しようとする時、用いる伝達手段として、そのルール・規則性・特徴・約束が体系化されたもの典型が「言語(ことば)」でしょう。そして、「言語」を表記するための符号が「文字」です。言語を表記する場合、一般に、何種類かの文字を組み合わせて並べることで表現され、その組み合わせのパターンによって意味を区別して表します。漢字の場合は、文字そのものが単独でも意味を表すことができますが、漢字もいくつかの部首に分割して考えれば、数種類の部首の組み合わせパターンで意味が表されているということができるでしょう。

 組み合わせる“持ち駒”の種類と数は言語によって異なります。アルファベットなら26種類(コンマやピリオドなどの記号も含めるともう少し)ですし、ひらがなやカタカナは約50種類、漢字は何千何万とありますが、部首に分割すればその種類は限られます。いずれにしても、それほど多くはない数の数種の“駒”の組み合わせ方によって、全て様々な意味が表されるのです。昨今はデジタル技術が進歩し、コンピュータが無くては何もできない時代になっていますが、コンピュータではこれらの文字は、全て文字コードと呼ばれる2進数で表して扱います。ASCII(アスキー)コードは、文字コードの最もベーシックなものです。2進数ですから、書き下すと全て“0”と“1”の組み合わせで表現されます。

 生物の体もDNAの情報によって形造られて行く訳ですが、よく知られているように、DNAには、アデニン(A)・チミン(T)・グアニン(G)・シトシン(C)という4種類の塩基の配列によって遺伝情報が格納されています。4種類ありますが、組み合わせとしてはA-TとG-Cの2種類のペアしかありませんので、この意味では、“0”と“1”の組み合わせで出来ているコンピュータの世界と同じと言えるでしょう。

 いずれにしても、基本要素の種類の数はごく限られてはいても、数多くの“駒”が組み合わさることで、その組み合わせパターンによって様々な意味が表されることになる訳です。要素の一つ一つは単なる“駒”ですが、駒の組み合わせ方・並べ方がそれぞれに意味を表しており、それが発信者が伝えようとする“情報”ということです。

 コンピュータであらゆる処理が可能なように、“0”と“1”のたった2種類の駒でも、多量の駒が集まれば、その組み合わせパターンは膨大に数になり得ます。例えば、囲碁の碁盤の目は縦横19×19ですので、碁石を置く場所は全部で361箇所あります。置き方はそれぞれの目に白か黒の2通りがありますから、碁盤を碁石で埋め尽くすパターンは、対称性を度外視すれば全部で$${2^{361}}$$通りです。$${2^{361}}$$がどれほどの大きさの数か、なかなかピンとはきませんが、
$${2^{361} = 2×2^{360} = 2×(2^{10})^{36}}$$
ですので、
$${2^{10} = 1024 ≒ 10^3}$$
とすれば
$${2×(10^3)^{36} = 2×10^{108}}$$
ということですから、十進数でおおよそ109桁ほどの数値になることが分かります。109桁の十進数の一番小さい値でも、1の後に0が108個も繋がってる訳ですから、途方もない大きさの数値だということが分かります。

 “0”と“1”や、“A-Tペア”と“G-Cペア”などの駒の一つ一つは、それら単独ではそれぞれの駒を区別する特徴を持つ存在としての意味しかありませんが、数多くの駒が組み合わさったものになる時、その組み合わせパターンによって、膨大な種類の様々な意味が表現され得るのです。“駒”そのものは実体物ですが、“駒を並べる組み合わせ方”というものは実体物ではなく、ソフトウェアの問題であって、要するに“プログラム”です。“情報”と言い替えることもできるでしょう。正にコンピュータのプログラムは、機械語レベルでは全て“0”と“1”で表されます。コンピュータのプログラムは、その処理の内容や動作を“コメント”として言葉で表現することができますので、“プログラム”と“言葉(ことば)”は実質的に同等と言うことができます。

 “駒”とそれが無数に並んだものは、目に見える形のある、実体のある物ですが、どのように組み合わせて並べるかという“方法”は、ソフトウェア、つまり、“情報”であり目に見えるものではありません。言葉も、文字で表記すれば目に見える形になりますが、言葉が表す意味そのものは目に見えるものではありません。“愛”という文字は目に見えますが、“愛”という文字が意味するもの自体は形も無く目にも見えません。しかし、それが具体的に態度や行動、表情など伴って表に現れることで、はじめてそれがそこにあることが分かります。DNAに秘められたプログラムそのものは目に見えるものではありませんが、DNAがそれに込められた意味を発揮して“情報”が紐解かれ、その働きによって生物の体が形成されれば目に見える形になります。聖書にある次の言葉は、私たちの一人々々のDNAに私たちの情報が書き込まれた、ということを示唆しているように思えます。

「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」

(詩篇139篇16節)

 “言葉(ことば)”、言い換えれば“プログラム”、あるいは“情報”そのものは、形も無く目には見えないものですが、それが発動してその効果を発揮する時、目に見えるもの、形ある実体が生まれる、ということではないでしょうか。すなわち、この世界の目に見えるものは、実は目に見えないものが基になってできている、と言うことができるのではないでしょうか。
 聖書には次のような言葉が記されています。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

(ヘブル人への手紙11:3)

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