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科学と聖書にまつわる随想(14)

「フラクタル」

 “無限アート”というのがあります。絵の一部を拡大してズームインしていくとその中に別の絵が現れてきて、その一部をまたズームインしていくとまた別の絵が現れ、さらにその一部をズームインしていくと......というのがずっと続く絵です。幾何学の分野でいう“フラクタル図形”はこれと似た性質のものです。

 代表的なフラクタル図形の例として“コッホ曲線”があります。ある長さ(Lとします)の線分を3等分し、真ん中の区画に一辺がL/3の正三角形を乗せて、真ん中の区画をその正三角形の残り2辺に置き換えて角を作る、という操作を、できたL/3の4つの各辺についてさらに行い、......ということを延々繰り返してできるギザギザした曲線です。この曲線は、一部をどれだけ拡大しても、常に真ん中に三角の角が生えた形が出てくるので、どの部分をどれだけ小さく切り出してみても、拡大して見れば結局元と同じ形になっている、というところが面白い性質です。つまり、フラクタル図形の特徴は、“部分が全体と相似”というちょっと不思議な点です。

 カリフラワーの一種で“ロマネスコ”という野菜は、デコボコと角が生えていて、それぞれの角にまた小さな角が生えていて....という、一見奇妙な形をしています。角の中に角、という階層が無限に続く訳ではありませんが、フラクタルっぽい形状と言えるでしょう。考えてみればブロッコリーも、モッコリした中にツブツブがあって、フラクタルっぽい形です。木の枝が、トーナメント表のように枝分かれした先でさらに枝分かれして....というのが続いている状態もフラクタルと言えるでしょう。人の肺の肺胞の形もこれと似ています。というように、見渡してみると自然界の中にはフラクタルな性質があちこちに見受けられます。

 地球は太陽系の惑星の一つとして、太陽の周りを公転していることは周知の通りです。太陽を中心として惑星がそれぞれの軌道を運行している様子を外側から眺めた人間は誰もいませんが、その様子を想像してみると、それは原子核の周りを電子がそれぞれの軌道を回っている様子(これも目で見ることはできませんが)と似ている、ということは多くの人が感じることではないでしょうか。身近な自然の中にフラクタルな性質を持つものがいろいろある上に、我々を包含する太陽系の構造と、その一部である構成物質の原子の構造が似ているというは、宇宙全体、すなわち、被造物全般が、多かれ少なかれフラクタルな性質を持っていることを示唆しないでしょうか。素粒子物理学でミクロの世界を追究することが宇宙を探求することに繋がるのは、まさしく“部分が全体と相似”だから、ということと無関係ではないように思います。

 自然界の被造物、すなわち、目に見える形で記された“神(創造主)のことば”がフラクタルな性質を持っているとすれば、人の言語を用いて記された“神(創造主)のことば”である聖書もまた同様、という推論は自然でしょう。実際、聖書には様々な記事が記されていますが、例えば、旧約聖書はイエス・キリスト以前のものですが、イエス・キリストの予型・予表と考えられる記事が数多く記されているように、いずれの部分を取り出しても、それは聖書全体が伝えようとしているメッセージに通じることが分かります。つまり、部分が全体と相似であり、部分を切り出してスライドにして投影すると聖書全体のメッセージが浮かび上がるのです。そして、その焦点がイエス・キリストに結ばれています。あたかも、紙幣に偉人の肖像が透かしで入れられているように、聖書の各ページにはイエス・キリストが透かし彫りにして埋め込まれているかのようです。聖書は、イスラエル民族という全人類の“一部分”の歩みをテーマにして記すことにより、人類の“全体”に当てはまる真実を描いているのです。

 また、聖書は、受験勉強で使う問題集にも例えることができると思います。旧約聖書が問題編で、新約聖書が解答編に当たります。問題編の各問題は解答編と繋がっています。解答編が無ければ、問題編だけでは何も解決されません。かといって、解答編だけでは、何ついての解説が記述されているのかチンプンカンプンです。問題の一問一問を解いて行くと、その問題について考えている時は、科目の一部であるその問題の具体的なポイントしか見えて来ませんが、それを積み重ねて行くことによって、その問題集が取り扱っている科目全体の知識が身に付いて、全体を俯瞰して見る目が養われて行くのです。問題集の部分部分が全体に通じているのです。

 自然界、つまり、この空間がフラクタルなら、時間もまたフラクタルかも知れません。進化論は人の作り話で空論ですが、「個体発生は系統発生を繰り返す」という説は、まさしく自然界がフラクタル性を持っているが故に生まれた発想でしょう。実際、歴史は繰り返すと言います。平家物語ではありませんが、諸行無常栄枯盛衰、歴史の中で起こった全ての事には始まりがあって終わりがある。一人ひとりの人生にも始まりがあって終わりがある。部分が全体と相似とするならば、この世界の歴史全体にもやはり、始まりがあって終わりがあるはず。
 確かに聖書は、天地創造から始まって、(13)の末尾の聖句のように、それがやがて終わりを迎え、新しく造り替えられることを述べています。

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