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科学と聖書にまつわる随想(31)

「透ける波」

 東京にあるユニークなデザインの公衆トイレで、全面ガラス張りで周りから中がスケスケだけれども、人が中に入って鍵をかけると、壁のガラスがパッと曇りガラスになって中が見えなくなる、というのができて話題になったことがあります。この壁に使われているガラスは、液晶を使った特殊な層を透明電極とガラスで挟んだ構造をしており、電極に電圧を加えると液晶分子が整列して光を透過する状態になり、電圧を切ると液晶分子の向きがバラバラになるので光が散乱して不透明の曇りガラス状になる、という仕組みだそうです。このトイレに使われている特殊ガラスの場合、曇りガラス状の不透明の状態の時でも、ガラスを透過する光は散乱されはするものの、透過する光の量そのものは透明の状態の時とほとんど変わらないそうです。要するに、不透明状態の時でも、ガラスで光が吸収されてしまうために向こう側に光が届かなくなる訳ではない、ということです。

 光、広く言えば電磁波が物質に入射した際に起きる現象として、反射、散乱、透過、吸収、などが挙げられます。どういう現象が起きるかは、電磁波の電磁界と物質中の電子・原子・分子などとの間でどのような相互作用が起きるかに依存します。電磁波はエネルギーを伝播しますが、そのエネルギーの一部がこれらに受け渡される場合、電磁波は物質に吸収されることになります。その受け渡される量が小さい場合、残りが透過あるいは散乱することになります。電子などの荷電粒子は電界から力を受けますので、電磁波の振動する電界によって揺さぶられることになります。物を揺さぶった時、大きく揺れるかほとんど揺れないかは、揺さぶる速さと揺さぶられる物の特性に依存します。大きく揺れて振動が伝わり、物が揺れることで摩擦熱が生まれる場合が、電磁波が吸収されることに対応します。電子レンジで水分を含んだ物が温められる現象などがこれに相当します。揺さぶられはするけれども摩擦があまり起きず、物の振動が揺さぶった手に跳ね返ってくる、というような場合が“散乱”に相当します。“散乱”が入射した物質の表面で起きる場合が“反射”と言ってもよいでしょう。物質の内部で“散乱”が起きると“拡散”という言葉も使います。

 揺さぶる速さは電磁波の波長で決まります。特定の固有振動数を持っている物を揺さぶる場合は、それに合致した波長の電磁波(光)が上手くエネルギーの受け渡しがなされるので、よく吸収されることになります。そのような場合を“共鳴吸収”といいます。一方、X線は波長が非常に短く、つまり、揺さぶる速さが速すぎるため、振動が上手く物に伝わらず、そのまますり抜けて内部を透過してレントゲン撮影ができるのです。電磁波(光)のエネルギーが物質中の電子に受け渡されて、電子がよりエネルギーの高い状態に移行することを“励起”といいます。“励起”された電子が元の状態に戻る時、その分のエネルギーを原子・分子の振動に変える場合は、熱として吸収されることになりますし、光のエネルギーとして放出する場合、そうして発せられる光が“蛍光”です。

 ガラスは絶縁物ですので、自由に動ける電子がありませんし、非晶質ですので結晶と結晶の界面が無く、そこで散乱されることもありません。ですので、表面が平坦であれば透明で向こうが透けて見える訳です。別の言い方をすれば、電磁波(光)とほとんど相互作用をすることがないので、電磁波(光)は透けて通ってしまうということです。

 透明人間になると誰にも気付かれないで好き勝手にいろんな悪戯ができる、というようなことを妄想したことは誰しもあると思いますが、よくよく考えてみれば、透明人間になるということは、自分の体を光がすり抜けるのですから、自分の目をも光がすり抜けて通ってしまうことになる訳で、自分の目の網膜も光と何の相互作用もしないということですから、そうすると自分には何も見えない、ということになってしまいます。つまり、透明人間になった瞬間に、自分は暗闇の世界に行ってしまうことになる訳です。もし透明人間なのに周りが見えているとしたら、外側から自分を見る他人には、空中に2つの黒目だけが浮かんでいる妖怪に見えることになります。

 電磁波(光)だけでなく、私たちは気付きませんが、地球上には宇宙から様々な粒子が宇宙線として絶えず飛来していて、私たちの体をすり抜けて行ってるそうです。私たちの体だけでなく、土や岩石などもすり抜けて地球の内部まで浸透して行っているそうです。ニュートリノの研究のために作られたカミオカンデが鉱山跡の地下深いところにあるのもそのためです。

 私たちの五感には限界がありますので、私たちの体にまで浸透しているものがあるのに、それになかなか気付かないことが多々あるのだと思います。私たちと共におられる(インマヌエル)神(創造主)がその典型だと思います。

「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。『神の国は、目に見える形で来るものではありません。「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。』」

(ルカの福音書17:20, 21 )

 こんなたとえ話が聖書に記されています。

「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。
『見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
耳のある者は聞きなさい。』」

(マタイの福音書13:3~9 )

福音書の中で、イエス・キリスト自身がこのたとえ話の意味を解説しておられます。

「ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

(マタイの福音書13:18~23)

 “御国のことば”は、電磁波や宇宙線と同じように常に私たちの体に浸透して通って行っています。私たちは、それと相互作用を起こさずにそれをそのまま透過させたり散乱させてしまう“透明人間”ではなく、しっかりそれを吸収する者でありたいと思います。共鳴して吸収するのが一番吸収効率が高いでしょう。
 “御国のことば”をスルーしてしまう“透明人間”は、暗闇の世界に行ってしまうのですから。

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