科学と聖書にまつわる随想(6)
「有限と無限」
熱力学第二法則は、“秩序から無秩序へ向かう変化”が自然界の普遍的な流れであることを示唆していますが、進化論はこれと全く逆の向きの変化が自然に起きることを主張している訳で、多くの人がそれを当たり前のように信じているのは不思議です。
天地創造の直後の状態は“非常に良かった”のに、人が「善悪の知識の木」の実を取って食べ、創造主との“契約”を破ったところから崩壊が始まってしまった訳ですが、そうすると、創造主の創造の業は失敗だったのでしょうか?
自然界の物理法則を作られたのも創造主である訳ですから、もし、人が創造主との“契約”を破ることがなかったとすれば、熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)も違った形になっていたかもしれませんし、人の体が老化し“死”に至ることもなかったでしょう。“死”は“罪”の結果としてもたらされたものだからです。
とありますから。
一方で、創造主が人を創造した時、人を祝福して、
と言われました。人が子孫を生み、人口が増える一方で死ぬことが無かったとするならば、当然のことながら、人口増加は際限なく続くことになります。しかし、私たちが住むこの地球が丸いことは周知の事実です。地球は半径約6400kmのほぼ球形です。したがって、その表面積は約5臆1千万km2で、しかも、そのうち陸地は約3割です。さらに、陸地の中でも人が生活できる環境のところは限られています。人の体の大きさは人それぞれではありますが、お伽噺に出てくる小人のような人はおらず標準的なサイズというものがありますから、そうすると必然的に地球に住むことができる人口には限界があるでしょう。つまり、「地に満ちる」ことのできる人の数は有限です。
ということは、創造主は初めから、地上で人が際限なく増え続けることはないこと、つまり、人に“死”が入り込むことは端から承知の上であった、ということにならないでしょうか。つまり、人が“契約”を破って背くことも、全ては創造主のご計画の内であった、ということです。私たちの有限の大きさの脳ミソで、無限・永遠の創造主の知恵の全てを知ることは不可能です。
私たちの能力は有限ですが、“無限”・“永遠”という概念は持つことができます。それは、私たちが創造主の「似姿」(創世記1:26)として創造されたからです。
そして、自らが有限であるが故に、“永遠”への憧れを持つのです。
数学で“直線”というと、「真っ直ぐに無限に続く線」を意味しますが、地球が丸い以上、実際にはそんな線を描くことはできません。電磁気学でも、静電界の計算で「基準を無限遠点とする」という表現をしたり、「無限長」の導線やソレノイドコイルを仮定したり、ということをします。このように、実際には不可能な理想的モデルを想定して思考ができるのも、“無限”・“永遠”という概念を持つことができるが故です。微分・積分、極限などの数学操作にも“無限”・“永遠”という概念が必要であり、全て科学的思考はこの上に成り立っています。つまり、科学は本来、私たちの目を創造主に向けさせるためのものである、と筆者は考えます。
創造主は、人が“契約”を破って背くことをご承知の上で人を創造された訳ですので、その“罪”を許容し、それを解決する手立てもちゃんと準備しておられました。「罪の報酬は死です。」の続きは、
です。私たちの肉体が時間とともに衰えやがて“死”に至ることは、自然界の物理法則に従う以上、避けることはできませんが、私たちの上に置かれた創造主の“契約”・“ことば”、すなわち、“霊”は、“永遠”に活き続けることが可能なのです。そのための鍵となるのが「主キリスト・イエス」です。
熱力学第二法則は、経時的な物事の変化の向きを規定しています。これは見方を変えると、時間の経過の向きが一方向であることを示しています。ビデオを逆再生したかのような現象は決して起きないということは、時間が逆戻りすることはないということとイコールです。つまり、天地を創造した創造主は、天地という空間だけでなく、時間をも創造し支配しておられる、ということが分かります。“永遠”というものがどういうものか、有限な私たちは概念で持つことができるのみで、決して実感を持って理解することはできないとは思いますが、それが賜物として約束されるということは何と幸いなことでしょうか。
「御子」とは、もちろん「主キリスト・イエス」です。
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