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科学と聖書にまつわる随想(27)
「感じる速さ」
筆者は、職場まで電車で通勤しています(2024年現在)。電車に乗っていて車窓の景色を眺めながら感じることで不思議に思うことがあります。朝、出勤する時は、景色の流れが結構速く見えるのですが、それに比べると、夕方帰宅時は、何故か景色の流れが少しゆっくりで電車のスピードが遅いように感じるのです。電車の運行会社に確認した訳ではありませんが、おそらく、進行方向によって電車のスピードが違っているということは無いでしょうから、これは心理的な体感スピードの問題、つまり、錯覚によるものと思われます。たぶん、朝、出勤時は気持ちが先に進んでいないのにそちらの向きに電車が動くのに対し、帰宅時は、早く帰りたいと気持ちが電車より先に進む、というのが理由かと考えられます。あるいは、朝は比較的明るいのに対し、夕方は暗い、というのも関係があるかもしれません。
かつて、10代の学生たちに筆者がよくした話です。ある程度年齢を重ねた方なら誰しも同意してくださることだと思いますが、昔の若い頃の自分のことを振り返ってみると、小学校の時代や10代の時代はとっても長かったように思えるけれども、20歳を過ぎると途端に時間の経つのが速く感じるようになり、歳をとるとともにどんどん時間が経つ速さが増してくるように思います。しかし、そう感じるのは何故か、ということです。10代の頃までというのは、体も心もグングンと成長する時期で、知識や興味が広がって、自分自身がものすごいスピードで変化しています。自分自身の変化のスピードが速いので、相対的に回りの世の中の変化がゆっくりに見え、したがって、時間の経つのが遅く感じられるのです。この時間の経過がゆっくりと感じられる期間にどれだけ沢山の蓄えを作っておくか、ということが後の人生に大きく関わってきます。ところが、20歳を過ぎると、体の成長はほとんどストップしていますし、その一方でやるべき事や責任が増えて、こなすべき負荷が大きくなってくるため時間の不足を感じ始めて、時が経つのを速く感じるようになるのです。
速度というのは、そもそもが相対的なものです。“距離の時間変化”と捉えれば、必ず距離を測る相手が必要ですし、“座標の時間変化”と考えても、“座標”とはすなわち原点からの距離に他なりません。座標の時間変化が一定であっても、気持ちが動くと心理的な体感スピードが変わる、ということなのでしょう。
自分がじっとしている積りでも、相手が動けば、相手から見た自分の位置が変化する、つまり、移動していることになる訳で、したがって、ある速度で動いていることになります。地球は1日1回転自転をしていますから、私たちは皆、じっとして動かない積りでいても1日で地球を一周するするスピードで動いていることになりますし、公転まで考慮すればなおさらです。それでは一体、速度とは何なのか、基準になる絶対的なものは無いのか、というところから、どんな運動をしている立場から見ても光の速度が同じに観測されるという実験事実(これについては別の記事で述べてみたいと思います)を踏まえて、光速度不変の原理に基づいて構築されたのが相対性理論である訳です。
光の速度が基準になるということは、神(創造主)が光であることを思えば至極当然とも言えるでしょう。
「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。」
相対性理論によれば、光の速度が一定とするならば、時間の経過の仕方が一定ではなくなることになります。体感で時間の経つスピードが異なる場合があるのも、ひょっとすると、まるっきり錯覚だけによるものという訳ではないのかもしれません。
何かを期待して待っている時は、時間の経つのが遅く感じられるものです。私たちはイエス・キリストが再び来られることを待ち望んでいます。
「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」