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科学と聖書にまつわる随想(36)

「マイケルソン-モーリーの実験」

 光は、私たちの身近なところでは、波動としての性質からもたらされる現象に接することが多いと思います。反射や散乱、屈折、回折などの現象は、いずれも波の性質として解釈が可能です。1864年にマックスウェル(Maxwell)が、それまでの先駆者たちによる電気と磁気に関する知見を4つの微分方程式(今日、Maxwell方程式と呼ばれるもので、電磁気学の基礎方程式)に定式化してまとめました。このMaxwell方程式から、電磁界が波動として伝搬することが導き出されるのですが、これが実際に1888年にヘルツ(Hertz)によって実験で確かめられました。そして、方程式から導き出される電磁波の伝播速度に当たる量が、それまで実験によって測定されていた(実験に伴う誤差を含んでいる)光の速度に極めて近いことから、光が電磁波の一種であるという考えが生まれました。

 問題は、光が波動であるならば、波動は媒質の振動が伝播するものであるのだから、では、光の媒質は何か? ということです。そこで、当時の人々は、物理的な実体は不明なまま“エーテル”という仮想的な物体を想定しました。その実体を捉えようとして、マイケルソン(Michelson)とモーリー(Morley)によって行われたのが「マイケルソン-モーリーの実験」です。
 

マイケルソン-モーリーの実験の装置概略

 図が実験装置の概略です。光源から出た光が、斜め45°に置かれたハーフミラーで2系統に分けられます。一つはそのまま直進し、前方の全反射ミラーで反射されて折り返し、再びハーフミラーでその一部が90°の角度で反射して検出器に至ります。最初にハーフミラーで90°の角度で反射した光は、やはり前方の全反射ミラーで反射されて折り返し、再びハーフミラーでその一部が通過して検出器に至ります。こうして2つの90°異なる経路を通った光が検出器で合成されます。波動はある波長を持っていますので、2つの経路を通った光が合成されると、互いに強め合ったり弱めあったりする干渉の様子が、経路の長さの差に応じて変化するはずです。2つの経路が全く同じであったとしても、地球は自転・公転していますから、実験装置は常に宇宙空間の中で移動していることになり、エーテルに対してある相対速度で運動しているはずで、その影響はエーテルに対する相対速度の向きと光の経路が平行な場合と垂直な場合で異なるため、90°異なる経路を通った2つの光を合成すると、その差が干渉の変化として観測されるはずだ、とマイケルソンとモーリーは予想したのです。

 ところが、実験事実は彼らの予想外でした。実験誤差の範囲を超える、彼らが予想した程の干渉の変化は観測されませんでした。なかなか、思った通りに実験がうまく行かなかったのですが、マイケルソンさんは非常に楽天的な性格であったのか「まぁ、行けるぞ(マイケルソン)」と言ったとか言わなかったとか。それに対してモーリーさんは悲観的な性格で「もういい(モーリー)」と言ったとか言わなかったとか。というのは冗談ですが、いずれにしても、彼らによる実験事実は“エーテル”という物質の存在を否定するものでした。そして、これが、一定速度で動いているどの座標系から見ても光の速度は変わらないという“光速度不変の原理”に繋がって行くことになります(アインシュタイン自身は、マイケルソン-モーリーの実験結果を見て“光速度不変の原理”を思いついたのではない、と言っているそうですが...)。この意味で「マイケルソン-モーリーの実験」は、科学史について語る上で非常に重要な位置付けにあるものです。現在では、光は何らかの物質を媒質として伝わるのではなく、電界・磁界という空間の性質の振動が伝わるものとして理解されています。

 「マイケルソン-モーリーの実験」は、エーテルを確かめるという目的に対しては、それを達成できなかった訳ですから、失敗と言えば失敗です。しかし、それによって光の本質は何かということに関しての新しい知見が拓けて行き、科学が大きく進歩することになった訳です。また、その実験装置に用いられた光学系は、“マイケルソン干渉計”として、物質の光学的性質を測定したりする分野で広く用いられる基本的な形になっています。

 マイケルソン干渉計における光の経路の図から、誰しも思い浮かぶのは「十字架」ではないでしょうか。イエス・キリストの十字架は、当時のユダヤ人たちの立場からすれば、“ユダヤ人の王”であったはずなのに死刑に処せられてしまったのですから、イエスは失敗したのだ、ということになるでしょう。しかし、その十字架によって“罪の贖い”が成し遂げられ、そこからの復活によって“永遠の命”が与えられる、新しい時代が始まることになった訳です。

 聖書が示す真実は、いつも逆説的です。

「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

(コリント人への手紙第二12:10 )


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