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科学と聖書にまつわる随想(22)

「たしからしさ」

 昔、小学何年生の時だったか覚えていませんが、算数の教科書に「たしからしさ」というタイトルの単元がありました。その当時、これって何?と思っていました。“たし”から“しさ”、なのか、“たしから・しさ”なのか、意味がサッパリ分からない、と思っていました。たぶん、“確”という漢字をまだ習っていない段階だったので、ひらがなで表記するしかなかったのだと思いますが、「確からしさ」と書いてくれていれば、もうすこしましだったのでは、と思ったりします。それでも、この言葉の中の“らしさ”というのが、“男らしさ”とか“子供らしさ”の“らしさ”だと気付いたのは、だいぶ後になってからだったと思います。“円周率”は小学校でも習うのですから、“率”を使って「確率」と言ってくれた方がずっと飲み込みやすかったのでは、と思ったりもします。今では、天気予報でも“降水確率”などと、“確率”という言葉が日常的に使う言葉として認知されていますからなおさらです。タイトルが正しく理解される“たしからしさ”も考えて、タイトルを付けて欲しいものです。ただ、本稿の場合は、意味のよく分からないタイトルの方が読者の興味を惹きつけるのにはより効果的かと思い、敢えてこのタイトルにしてみました。

 “確率”の数学における厳密な定義はさておいて、ざっくりと言えば、“確率”とは、想定し得る全ての場合の数のうち、注目する場合の数が占める割合、と言ってよいでしょう。この時、注意が必要なのは、想定し得るさまざまな場合が、それぞれに同等に“確からしい”ことが前提条件であることです。“確からしさ”の定義に“確からしい”ことが前提になっているのは矛盾しているとも言えますが。例えば、サイコロの目の数は6つなので、1の目が出る確率は1/6ですが、それは、どの目も偏りなく出ることが前提です。しかし、実際のサイコロでは、目のところが少し凹んでますから、目の数が違うと凹みの数も違う訳で、そうすると重心はサイコロの中心からは少しズレた位置になるはずです。重心が中心からズレてたら、各目が出る確からしさは異なってくるのではないでしょうか。ひょっとすると、1の目だけ凹みが赤くて少し大きいのは、そこのところの調整のためでしょうか。

 いずれにしても、このように確率を定義するならば、確率を求めるためには“起こり得る全ての場合”の数を知る必要があります。しかしながら、よくよく考えてみれば、確率を議論するということは、将来どうなるかということについてのヒントを知りたい訳ですが、現在において知り得ることは、あくまで現時点までに起きた事柄のみであって、将来何が起きるかは分からないのですから、“起こり得る全ての場合”については、そもそも知りようがありません。ここに矛盾があります。サイコロだって、どの目が出ることもなく、斜めに立って止まることもあるかも知れません。

 ちなみに、天気予報の降水確率は、現在と類似の気象条件になった過去の事例を調べ挙げて、そのうち雨が降った時がどれだけの割合あったか、ということをパーセントで表したものだそうです。決して将来の予測を示すものではなくて、あくまでも現在までのデータから計算した数値である訳です。今から家の外へ1分間の外出を100回繰り返した時、そのうち何回雨に降られるかを予想する値という訳でも、100分間外に出ている間に何分間雨に降られているかという値でもないのです。

 大地震の発生予測にしても、今から何年以内に地震が起きる確率は何パーセント、という表現を聞きますが、この“確率”という言葉も、どういう根拠に基づいて何を計算した値なのか、という定義を示さないと誤解を招きやすい言葉だと思います。そもそも、過去の事例はいくつもあるでしょうけれども、これから1分後、1時間後、というのは一回キリですから、場合の数も何も定義のしようがありません。起きるか・起きないかのどちらかしかありません。50%の確率で起きる、と言われても地震が半分で途中で終わる訳ではありませんし。

 今から先のことについては、どこで何が起きるかは誰にも分からないのですが、それに備えて行動を起こすにあたっての判断材料として、何等かの拠り所となるものが欲しい、という要求に応えるものとして、今までに知り得た過去の諸々の事実に基づいて計算した数値として、“確率”がある訳でしょう。ただ、その数値がどのようにして弾き出されたものかというところが曖昧なまま、得てして数値だけが一人歩きをしてしまいやすいところに注意が必要だと思います。

 しかし、いずれにしても判断には責任が伴いますから、その負担を誰にも掛けることのない判断手段として、聖書では“くじ”が何度も登場します。

「くじは膝に投げられるが、そのすべての決定は主から来る。」

(箴言16:33)

「くじは争いをやめさせ、強い者の間に決着をつける。」

(箴言18:18 )

将来のことは何人たりとも知ることはできないのであるから、人が先走って軽率に分を超えた判断をしてしまうことが無いように、という戒めとして“くじ”が用いられるのだと思います。

 将来のことは誰にも分かりませんが、いつ起きるかは分からないにしても、いつかは確実に起きる、というものがあります。確実に起きるという意味では“確率”は100%とも言えるでしょう。私たちが今生きている以上、必ず死ぬ時がやって来ます。ただ、イエス・キリストを信じる私たちは、もし、この地に生きている間にイエス・キリストの空中再臨があれば、肉体の死を経ずして天に引き挙げて頂く(携挙)ことができる、という希望があります。
 将来のことが分からないと、それが恐れや不安の元になります。しかし、イエス・キリストはこのように言われます。

「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」

(ヨハネの黙示録1:17,18 )

 “確率”と似た概念で、“尤度(ゆうど)”があります。確率は“確からしさ”であるのに対し、尤度は“尤もらしさ”です。平たく言えば、現在の状況に至った原因はいろいろ考えられるけれども、その中でこの原因はどれだけ原因として“尤もらしい”か、ということを表すものと考えるとよいでしょう。
 今、私たち人間が生きているのは、偶然の連鎖を経ての進化によるものでしょうか? それとも、神(創造主)の知恵と計画に基づく創造によるものでしょうか? 筆者は、後者の尤度が100%だと考えます。


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