ローコンテクストとハイコンテクストのコミュニケーションが生む社会への影響: その③「ローコンテクストな言語教育」

記者:Mさん

※こちらの記事は、シリーズ「ローコンテクストとハイコンテクストのコミュニケーションが生む社会への影響」についての漠然とした考察のための一つの視点として、③「ローコンテクストな言語教育」の仮説を探るために、自身の経験も踏まえてまとめた記事です。

文脈の誤解が増えている「炎上」という言葉が一般的になっているように、広告やそのほか様々な情報に対して炎上するケースは日常茶飯事だが、しばしば情報の一部が切り取られて拡散して誤解されて炎上しているケースが見受けられる。センセーショナルな見出しの情報をたどっていくと多分に大げさ、あるいは誤解があることがわかる...文脈を捉えられていない、文脈が正確に読み取られていないことがある。意図的なものは論外だが、溢れる情報の中で意図せずに文脈を誤解してしまうことも多いと思う。

日本人は文脈を読み取りはうまいのではなかったか?
「空気を読む」ように言葉以上の情報を読み取るハイコンテクストなコミュニケーションは得意とされる日本人だが、そもそもハイコンテクストなコミュニケーションが成り立つのは大多数の人が同じ価値観を持ち合わせている文化的背景によるもの。価値観が多様化が進み、かつSNSなどのネットワーク上の文字ベースのコミュニケーションがほとんどの状況では「空気を読む」ようなハイコンテクストなアプローチが難しくなっているのかもしれない。

言語教育からコンテクストを考える
ハイコンテクストな「空気を読む」アプローチが難しい状況では、ローコンテクストな言語によるコミュニケーションや思考方法はヒントになるかもしれない。具体的で明晰な表現を使う英語などのローコンテクストの言語ではどのようなアプローチや態度でコミュニケーションを取っているか、言語教育から考えてみる。

アメリカの英語教育(小学校〜)
日本でいう国語教育に当たるアメリカの英語教育(英語は公用語ではないが学校ではほぼ英語を教える)では、教科書よりも課題図書の文学作品を元に授業を進める場合が多いらしい。毎日少しずつ読書の宿題が出され、授業で作品の読み解きを行うにフォーカスされる。そのため、文の構造や単語の意味を知るといった読み書きのスキルだけでなく、文学作品全体から作者が伝えたいことや、どんな時代背景で、どんな考えを持ってこの作品を書いたのかなど、構造的にテーマを読み解く授業が多いようだ。
例えば、アメリカに住む日本人の方が小学校6年生の子供のテストとして児童文学「トムソーヤ」を題材にした設問を紹介している。題材はトムがいたずらの罰として塀のペンキ塗りをやらされている時に、友達のベンがやってきたシーン。

<設問>
①この会話は、フェンスのペンキ塗りについてのように聞こえます。しかし、実際にやりとりされているもっと大きなテーマは何でしょうか?
②この大きなテーマに関するヒントは何でしょうか?
③この物語が言及している、大きなテーマについてのポイントは何でしょうか?
④この会話を基に、トムとベンについての事実(考察)を全てリストアップしなさい。
⑤それらの事実(考察)からわかる、トムとベンについてのあなたなりの論理的な結論または推論を書きなさい。

...翻訳の仕方で設問の印象は変わるだろうが、この設問はだいぶレベルが高く感じる...
上記のように文章内にある事実からテーマを読み解き、自分の考えを述べる、という教育(訓練)が小学校から行われているのがわかる。
また、特に小学校では作文の課題がたくさんでるらしい。日本にあるような自由作文や読書感想文ではなく、意見をまとめる、おとぎ話を作る、料理の作り方の説明...などの様々なジャンルの文章を書かせる課題が出される。
このような授業の傾向から、文章にある事実や構造から伝えたいテーマや考えを読み解く、また自分の伝えたい考え、テーマを文章としてまとめていくスキルを教育していることがわかる。
一方で自分が受けていた国語教育は文章の詳細な読解に偏りがちだったと思う(近年の教育では改善されている可能性はあるが)。「空気を読む」文化の中では文章の中の機微を捉えることの方が求められるのかもしれない。それも文脈を読む技術だが、例えば文学作品全体から伝えたいことを捉える教育は少なかったと記憶している。


アメリカの英語教育からの考察
このような教育の背景には国の成り立ちや構成する人々が大きく影響しているだろう。
ローコンテクストな言語である英語が生まれた背景にも多様なバックボーンを持つ人々のコミュニケーションがあると言われるが、アメリカも多様な背景と価値観を持つ人々で構成されているため、「伝えたいこと」を的確に「伝える」、「伝えたいこと」を正確に「読み取る」スキルが暮らしの中で必要なのかもしれない。

空気は同じではない時代にはローコンテクストな態度で空気を読み解き共有する
ローコンテクストな言語の教育と背景の考察をしてみたが、「伝えたいこと」を的確に「伝える」、「伝えたいこと」を正確に「読み取る」スキルとして捉えると、価値観が多様化が進み、かつSNSなどのネットワーク上の文字ベースのコミュニケーションがほとんどの日本の状況でも求められるアプローチであることがわかる。みな同じ空気を共有しなくなってきているのだから、相手の空気を読み解き、自分の空気を共有するテクニックは必然だろう。
日米の言語教育の良し悪しは置いといても情報に日々接する中で参考にできる態度だと感じる。

出典:IN NADESHIKO WAY「アメリカの国語、日本の国語 (2)」
https://innadeshikoway.com/?p=4744