群と孤灯——憲法樹に鳥はうたう
【投票を前に9条について考えた】
柊 嘉六
いま参議院議員選挙が告示されている。この選挙は、いつになく重要なものだと思う。
ご存じのように、国会には参議院と衆議院がある。参議院は、議員の任期は6年。ただし、半数ごとに改選していく。3年おきに議員の半分が任期を終え、次をえらぶ選挙がおこなわれる。だから、前回の選挙は3年前で、次は3年後だ。
一方の衆議院では、任期は4年。ただし解散がある。大きな問題が起こった時などに天皇が、内閣の助言と承認を得て、解散させることができる。衆議院の選挙は昨年あった。任期満了によるものだ。なので、解散がなければ、3年後に選挙がある。
つまり、3年後の2025年には、参議院と衆議院の選挙がある。裏を返すなら、いまの選挙が終われば、そして衆議院の解散がなければ、3年間は国会議員の選挙は原則としてない。したがって、政治家が国民の審査を受ける機会は限られる。そういう意味で、大事な選挙であることは間違いない。
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投票にあたって、この10年で、私の記憶に深く刻まれた出来事をあげてみたい。
いまの与党――自民党・公明党連立政権は、2012年から続いている。同年に組閣した第2次安倍内閣は、14年に『集団的自衛権』を認める閣議決定をした。
これまで歴代内閣は、日本が直接に武力攻撃された場合にのみ、自衛権が行使できるという見解(『個別的自衛権』だ)を、国民の代表が集まる場である国会で答弁してきた。これに対し、集団的自衛権は、〝日本と緊密な関係にある国〟が武力攻撃を受けた際に、日本は自衛権を発動できるというものだ。安倍内閣の閣議決定は、いままでの政府の考え方を覆すものだったのである。
翌15年、安倍氏を総裁とする自民党と公明党の与党は、国会で、集団的自衛権の一部を自衛隊が行使し得るとする『安全保障関連法』(安保法)を成立させる。しかし、野党や法律の専門家、多くの市民によるこの法律の違憲性の指摘を黙殺し、また、その国会運営も強硬だったことから、成立には国民から大きな疑念や不安が寄せられることになる。
「日本と緊密な関係にある国」が米国であることは、自明である。安保法とはさしずめ、自衛隊と米軍が一体で軍事行動するための里程標(マイル・ストーン)であろう。
本年2月、国際法秩序を破り、ロシアがウクライナに軍事侵攻した。ロシアがどう言おうがこれは、帝国主義のころとなに変わることのない侵略戦争である。ウクライナ国内の自国民保護という名目すら、国際社会には空ぞらしい。自衛という言葉は、軍事国家が他国に戦争を仕掛ける際の常套句であることは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻や、大日本帝国の経済封鎖を理由とする対英米開戦など、歴史が多くを語っている。
すると日本では、政治家たちが軍備増強を言いだした。以前より脅威であった中国・北朝鮮を念頭にした論で、曰く、敵から武力攻撃を受ける前にその基地をたたくべきだ、曰く、米国と核兵器を共有すべし、曰く、防衛費はGDPの2%まで伸ばす、云々。果ては、憲法に自衛隊を明記すべきという改憲論にまで飛び火する。
憲法を変えるには、衆・参両院が3分の2以上の多数で、改憲案を可決しなければならない。そののち、国民投票で決める。いまのところ、積極的に改憲を唱えている政党は、『自民』と『維新』だ。『公明』ははっきりしないが、連立を組む自民にすり寄ることが多いようなので(安保法の時もそうだった)、一応、改憲派。『立憲』『共産』『社民』『れいわ』は、改憲には反対。そう大まかに色分けすると、現在、衆議院では改憲賛成派が3分の2以上を占めている。参議院では3分の2に足りていないが、もしいまの選挙ののち、それが3分の2に達したなら、国会は国民に、改憲発議をするかもしれない。僅差でそこに達しなくとも、次の選挙までの3年は、改憲のための準備期間としては十分ではないだろうか。
安保法が成立し、軍備増強論が大手を振る政治状況下で発議される改憲とは――非戦・軍隊不保持を謳った9条の理念と相容れないものであるだろう。
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心配しなくてもいい。いま改憲という笛を吹き、国民を踊らせようとしている政治家の言うことは、すこぶる滑稽だからだ。少なくとも私には、滑稽にしか映らない。
首相や国会議員には憲法を遵守し擁護する義務が、憲法により科せられている(第99条)。それを忘れて、改憲を口にするさまが、ひどく滑稽なのだ。ひとまずお辞めになってからにしては――そう思う。
ウクライナでの惨状は、テレビやネットを通じて映像配信され、日本にも届いている。心が痛む。戦争なぞ地球から永遠になくなれと願う。ところが、改憲を唱える政治家は、日本が他国から攻められたら、という方向へもって行く。これは、自国という狭隘(きょうあい)な視座に捉われた考えだろう。つまり、国レベルのエゴイズムの発現と思える。
もうひとつ、改憲論が依拠するのは、中国などの脅威だ。けどこれには、日本にも責任の一端があるように思う。そのひとつは、安保法を制定したり、靖国神社(A級戦犯すら合祀(ごうし)されている)に参拝したり、侵略戦争自体を否定したりする政治家の言動が、日本が平和国家から北東アジアの安全を揺るがす存在に変わりつつあるというメッセージとして、かつて日本が侵略戦争により蹂躙(じゅうりん)した国や地域に発信されたことではないだろうか。中国などの脅威の裏側にはどうも、日本が周辺国の警戒心を高めたということがあるように、私は疑っている。
残念ながら、その警戒心を解くために日本政府が、さきに書いた国や地域に対して十分に説明し、食いちがいの修正に努めることは、なかったと思う。非軍備を定めた憲法は、そういう地道な外交努力をこそ、求めているのに……。
安保法は日本の抑止力を高めるために必要だったと言う人たちに、問うてみたい。日本が抑止力のためと称して安保法を制定し軍備を拡大させた結果、中国の脅威が増したことを、どう受け止めているのか、一国の軍拡は敵対国の軍拡を促し、両国ともに倒れるまで走り続ける〝死のマラソンレース〟を競いあうだけではないか、そして、『自衛のため』という言葉は国を戦争に導く者の常套句であることを(このことは、前に述べた)、どう思うのか、と。
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さきに、首相や議員には憲法擁護義務があると述べたが、これは『立憲主義』に由来する。つまり、国家権力を縛るものが憲法だからだ。
王の絶対的権力を縛るために制定されたのが憲法であるなら、現代においては、首相であれ議員であれ、天皇であれ、公務員であれ――憲法を守り、擁護せねばならない。だから、ある首相が憲法を変えるなどと言えばそれは、捕らわれた者がわが身の縛めを勝手に弛めることと同じになる。
憲法9条は第2項において、陸海空軍その他の戦力は保持しない、国の交戦権は認めない、そう言っている。これは国家権力者に、戦力はもつな、交戦するな、そういう縛めをしていることになる。『戦力』にあたるかもしれない自衛隊を憲法に書くことは、この縛めを弛めることにほかならない(集団的自衛権に踏み込んだ安保法や、敵基地への先制武力攻撃容認論は、『交戦』に該当するから、やはり縛めを弛めている)。
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改憲を主張する者の中には、憲法が時代に合っていないとか、アメリカから押し付けられたとか言う者がいるが、これも滑稽である。
2015年に国連総会で、全加盟国合意のもとに決まったSDGs(エス・ディ・ジーズ)(持続可能な開発目標)17項目のうちの多くが、1948年に公布された日本国憲法には謳われているのだ。
たとえば、「貧困をなくそう」は、憲法25条で保障されている生存権であるし、「不平等をなくそう」「ジェンダー平等」は、憲法では14条にある。法のもとの平等だ。「働き甲斐」には、労働者の権利が欠かせない。27条だ。
「平和と公正をすべての人に」は、憲法前文と9条が掲げている理念である。
まさしく日本国憲法は、ウクライナでの戦争が収まった『戦後』におけるグローバル・スタンダードたり得る規範と言えるだろう。
もちろん、たとえば「気候変動対策」などは、憲法に記載がない(あえて言えば、憲法13条、幸福追求権か)。しかしそれらこそ、憲法を改正して取り入れていけばいい。それは、政府に気候変動対策を取らせることで、立憲主義に合致することだ。支障はない。
ついでに『非核三原則』、つまり核兵器を造らず、持たず、持ち込ませずを憲法に明記する改憲も、私は歓迎する。憲法9条を私が、そして多くの人が支持するのは、核戦争への恐怖が大きい。
プーチン大統領が核兵器使用をほのめかしたように、核保有国はいざとなれば使う気でいるらしい。使われた結果、地球は死の星になるかもそれない。その危機から確実に逃れるには、軍隊も、戦争そのものも、否定するしかあるまい。
ウクライナでの戦争を含めて、いま人類が戦争を止めなければ、戦争が人類を――いや、あらゆる生命を、やめさせるだろう。これが、核のある世界のリアリズムだ。その上に立つ憲法9条が、なんで理想論であろうか。
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なにより滑稽に思えたのは、憲法を否定し軍拡路線をひた走る国家権力者に、なにも言わない政治家、上級官僚、裁判官、検察官、それにマスコミである。彼らがなにも言わないから、権力者は自分のしたことを正しいと思い、修正しない。
彼らは、言わないだけでない。権力者のおこないにしばしば賛辞を呈する。それは、はだかの王様の話を思い出させ、私をいっそう滑稽な、また暗澹たる思いに駆り立てる。
さて、選挙である。結果いかんでは、『憲法改正』というプロセスにわれわれ国民は拉(らっ)せられるかもしれない。たとえ愚かだと言われようが、王様ははだかだと言った少年の心を、私たちはもちたいものだと思う。
《追記》
副題の『憲法樹(けんぽうじゅ)に、鳥はうたう』。「鳥はうたう」は、スペイン、カタルーニア地方の民謡で、この地方出身の20世紀のチェロの巨匠、パブロ・カザルス(1876~1973)が、亡命先でフランコ独裁政権に踏みにじられた故郷を想いながら編曲、たびたび演奏しました。それは、現在においても、平和を願うアーチストらに引き継がれています。興味ある方は、検索してお聴きいただければ幸いです。
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