閉店日当日の八重洲ブックセンター本店
八重洲ブックセンター本店の最終営業日。一昨日に来たばかりだが、再びこの場所に来てしまった。本店ビル周囲の路上は、さすがに人で溢れている。
店内も満員だ。先ずは最上階に上り、階段を降りながら各フロアを見て回る。洋書コーナーには、かのレクラム文庫が残っている。幾分か値引きされているようだ。
日本近代文学の棚で、久生十蘭全集を発見する。今世紀になってから編纂された、国書刊行会版だ。非常に凝った装丁で、箱入りで、一冊の価格が一万円以上する。豪華本だ。
自分もかつて、ここ八重洲ブックセンターで、久生十蘭全集を買ったことを思い出す。前世紀のことである。版元は、今は亡き三一書房だ。現行の国書刊行会版ほどには高価ではなかったが、ティーンエイジャーの財布にとっては、決して優しくは無く、全巻揃えることは出来なかった。
付録の月報には、中井英夫か誰かのエッセイと共に、小品「骨仏」が収録されており、この文章は、私が人生で最初に読んだ、「純正の超短編」ではなかったかと思われる。純正の超短編というのは、SFや推理小説のような論理的な構成や、ショートショートのような明確な落ちが用意されたフィクションではないという意味においてである。
店内では、昔の関係者らしき人物同士が再開し、互いに歓声を上げている。いわゆる「久闊を叙す」だ。昔話に花を咲かせている。
人の数だけ、個人史があり、精神史、内面史がある。かつて、書籍は、人間の精神活動に、最も多大な影響を与えうる媒体であった。巨大書店は、その時代において、個々の内面史が交差し結節するターミナルであり、社会的なインフラとして機能していた。同時代を生きる人類の集合知、全体知が具現化した空間だった。客同士が直接言葉を交わすことは少ないとしても、そのような認識がどこかで共有されていた。そんな時代があったのだ。
今日が最後なので、何か本を買おう。何でも良い。
岩波文庫の棚から、なるべく新しそうなものを一冊探す。『曹操・曹丕・曹植詩文選』を拾う。
次いで、この書店で最も売れたという一冊を、ベストセラーのコーナーから選ぶ。外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫だ。奥付を見ると、一九八六年刊。一二三刷。圧倒的だ。
レジに並ばなければならない。列は既に、店内を何度も折り返して一階フロア全体を埋め尽くし、店外に続いている。裏側の駐車場脇の路地を通り、ビルの周りを一周している。その列の要所要所に係員が立ち、整理・誘導に努めている。
時ならぬ高揚感・非日常感・一体感・イベント感がある。
列の最後尾を目指す。係員の指示に従い、並ぶ。
並びながらSNSを見る。現在参加中の、このブックセンターの殷賑も話題となって、実況されている。自分自身もまた、実況者の一人となる。
私のSNSのタイムライン上では、同時進行で、JR北海道の留萌本線の様子が伝えられている。不採算路線で、留萌~石狩沼田間が、今日をもって廃線となる。いわゆる葬式鉄だ。それらの駅においては、おそらく、この八重洲の街と同じような、時ならぬ喧噪が出現しているのだろう。それぞれの、三月三十一日の夜。
自分の前に並んでいた女性が、店員に記念写真の撮影を頼んでいる。自身の写真を撮ってもらうのかと思ったが、その店員の写真を撮りたいとのことだった。店員は希望に応じる。
金曜の夜だ。読書に余り縁の無さそうな酔客の一団が、一体何事かと係員に尋ねている。夜風が通る。
店の前の路上で、誰かがスピーチを始めた。この店と縁のある有名作家か、店側の偉い人だろう。誰なのかは確認できない。内容も良く聴こえない。しばらく話が続いた後、時ならぬ万雷の拍手が夜の中央区のオフィス街に起こる。
列は少しずつ進み、やっと店内に入る。会計が終了したのは二一時一一分。列に並び始めてから、およそ一時間かかった。
店外に出る。周囲には、名残惜しそうに記念撮影を続ける人々が、まだ何人も居る。これで本当にお別れだ。