精算機は拡張現実の夢を見るか?

 高架下の第二駐輪場では、スマートフォンを構えた中年の男が中腰の姿勢で静止している。極めて真剣なその視線の先には、少し前に降り止んだばかりのゲリラ豪雨で黒く湿ったアスファルト以外に何もない。
 ああ、ポケモンGoだなと周囲の人間は認識する。特に珍しくもない。先進国の都市圏や郊外において、既に日常の一部となった風景だ。
 スマホで獲得したGPS情報に世界観と物語性とを付与することで成立する位置情報ゲーム、拡張現実ゲームが人類社会に登場して何年にもなる。自身がそれをプレイしない者であっても、路上や公園でポケモンの捕獲にいそしむ老若男女の存在を、同時代の現象として受容している。


 高架化工事の完了によって、この路線と交差する道路の夥しい数の踏切は全て消滅し、高架下に誕生した新しい空間の開発が開始された。最も駅に近い場所にはスーパーマーケットやドラッグストア、鉄道会社の系列に属するコンビニ、飲食店が入り、その区画の隅の狭い敷地に、前輪をラックに差し込む形式の第一駐輪場がある。駐輪可能な台数は二十台。少し外側のエリアには自治体の窓口や医療機関、保育園、いわゆる一般のコンビニ等が並ぶ。
 更にその外延の、駅から最も遠い場所に、この広大な第二駐輪場は位置している。立地の悪さと引き換えに、第一駐輪場とは比較にならないほど広く、収容台数も桁違いに多い。駐輪料金は最初の一時間が無料、それ以降は二十四時間ごとに一〇〇円に設定されている。交通系ICカードによる決済にも対応している。
 だがそれだけだ。それ以外には何の特徴もない。ゲーム上のアイテムを補充するポケストップに指定されそうな、いかなる恒常的なオブジェも周囲には存在していない。存在していないというのは、美術的・文化的に存在していないということではなく、そもそも物理的に存在していないということだ。つまりここには何もない。
 この敷地内における唯一のメディア的存在、つまり世界に対し何らかのメッセージを発信する主体は、精算機だ。無表情にただ直立し、駐車券や領収書を発行し、受領した紙幣もしくは貨幣もしくは交通系系電子マネーに応じて定形の挨拶を反復するだけの彼女に、その資格が付与されるとも思えない。金網で直線的に切り取られただけの、上空を鉄筋コンクリートの構造物で厚く覆われた、殺風景で荒涼とした鈍色の平面には、どんな電脳生物が相応しいのだろうか? 

*

 男に釣られて、スマホの画面を覗き込んでみる。

*

 巨大都市の中枢から郊外に延びる鉄道路線に対して、交通政策上の課題として立体交差化の必要が指摘されてきたが、各路線の切替工事が完了したのは、二〇一〇年以降のことだ。そんなに遠い昔のことではない。しかし人々は早くもその記憶を失いはじめている。最初からその鉄道が高架上を駆け、地下空間を進んでいたかのように思いはじめている。恰も自分が生まれた瞬間からスマートフォンを携え、人工衛星によって網羅された全世界の地理情報を、自在に参照可能な全能の存在であったのだと、信じ始めているように。

*

 男に釣られて、スマホを確認したが、いかなるキャラクターも映っていない。有益な情報は何も得られない。……男が遊んでいるのは、ポケモンGOではなく、何か別種の位置情報ゲームなのか? ドラクエウォーク? ドラクエの位置情報ゲーが新たに開発中とは報じられているが、配信開始はもう少し未来、秋になると聞いた気がするが……。もしかして、選ばれたテストプレイヤー?
あるいは何か別種の、よりマイナーで世間には余り知られていないARゲームなのか?

*

精算機は発声をしている。本当は、彼女は精算機などには就職したくはなかったのかもしれない。彼女の第一志望は女子アナだったのかもしれない。ニュースやバラエティ番組に出演し、芸能人やプロ野球選手をお手頃な配偶者として捕獲したかったのかもしれない。

*

 一つの疑念が生じる。男が操作しているのは、そもそも位置情報ゲームではないのではないか? もしかしたら、心霊探知系のアプリではないのか。いかなる歴史性の蓄積も過去の記憶もないこの空間で、地縛霊の存在を幻視しようと不毛な努力を必死で続けているのではないか?
いつの時代においても、技術文明のどのような段階においても、オカルトと超常現象には一定の需要が存在し続ける。はるか昔、初代ファミコンの時代にも、テレビ画面に向かって念力を放つという理不尽を要求する超能力者育成ゲームが発売されていたことを、当時少年だった世代の一部は未だに忘れていない。

*

 精算機は直立している。本当は、彼女は精算機などには就職したくはなかったのかもしれない。彼女の第一志望はファッションモデルだったのかもしれない。最新のモードを纏ってランウェイを練り歩いたり、自信に満ち溢れた表情(平成時代末期の俗語で言う「ドヤ顔」)で、ポーズを決めたりしたかったのかもしれない。

*

 巨大な直方体の容器を背負った配達員の自転車が通る。ユーバーイーツだ。専用の器具でハンドルに固定したスマホをナビゲーターとして用い、現在地と目的地とをたえず確認している。鉄道高架と並行して一直線に敷設された見通しの良い新しい道路は、彼等にとっても他の自転車乗りにとっても、爽快であるだろう。この道路を開通させるために、変電所も敷地の一部を提供している。

*
 
 男はまだこの空間に居る。もしかして、スマホではなくその眼鏡が、最先端の特殊なデバイスなのかもしれない。拡張現実を捕捉する電子的な機能を備えた、いわゆる電脳眼鏡なのかもしれない。そうして、新しい空間の情報を取得したり、イリーガルな電脳情報を除去したりしているのかもしれない。

*

精算機は出力している。本当は、彼女は精算機などには就職したくはなかったのかもしれない。彼女の第一志望は出版社だったのかもしれない。彼女が本当に印刷したいのは、ファッション誌や詩集や他の何かのジャンルのベストセラーなのかもしれない。
平成から令和に変わっても、就職状況は厳しいことは変わらない。

*

 雨水が気化することで起こる気温の変化が、高架下に風を呼ぶ。男は奇声を上げ、慌ててスマホの角度を変える。遂には、スマホを掲げたまま走りだす。
  
*

 
 精算機は存在している。本当は、彼女は精算機などには就職したくはなかったのかもしれない。けれども、現在の仕事を辞めてユーバーイーツの配達員に転職する考えは、さすがにないだろう。劣悪な待遇の下で、多国籍企業に都合良く頤使されるその業務の実態は、ネットや報道によってしばしば指摘され、広く知られるようになっている。

*

女が漕ぐママチャリが一台、西の空に向かって激しく加速する。本当に離陸できそうだ。

*

 外国人客の増加に対応して、エキナカの立ち食いソバ屋の券売機は、最近英語を話し始めたという。環境の変化に対応し、自らの付加価値を高めるための絶え間ないスキルアップ。それを怠る者は、グローバル化が急速に進展する次世代のビジネスシーンにおいて、第一線に立ち続けることはできないだろう。高架下に立ち尽くす精算機に、その危機感はあるだろうか?

*

 男が見つめているのは、拡張現実の次元ではない。真夏の雨上がりの高架下に風が吹くたびに音もなく宙を舞う、儚い実体としてのケセランパセランなのだ。
 人工衛星が全地球的に統制する電子情報によって、ポケモンはネットワーク上の生命体として現前する。その存在を認識するためには、電脳的なデバイスが必要とされる。規則性を持たない微風によってのみ、ケセランパサランは想像上の飛行生命体として活動する。それを感受するためには、少しだけ原始的な詩人の感性が要求される。
 ポケモンは風に揺れない。ケセランパサランは揺れる。そして去る。

*

精算機は真夏の午後の直射日光を全身に浴びている。その金属製の筐体は既に完全に乾いて熱を帯びている。

*

 ユーバーイーツの配達員はポケモンに良く似ている。常にGPS情報によって統制され、それに従属しているという点において。つまり両者はその字義通りに、人工衛星という同じ星の下にある。そしてケセランパサランからは最も遠い。目的地が予め与えられ、その座標に辿り着くことを強いられているという点において。

*

――人工衛星から降り注ぐ無量大数の電子を受信する営為こそが、この惑星の表面積において生起する事象の大部分を規定する本質であり、現象として表出したのが電脳生物であるか、配達員であるか、大陸間弾道ミサイル誘導システムであるかは、偶々可視化された、解釈上の微細な差異に過ぎない。チェスの駒の彫刻作品としての巧拙や、サッカー選手のユニフォームの図案は、ゲームの趨勢とは直接関係が無い。
(ミンガラーバー・スメイル『全地球座標化社会における人間性の位相』)

*

精算機はポケストップの夢を見るか?

*

分からない。スマホの画面越しにケセランパサランを追う中年男の内面を誰も理解出来ないように。

*

ケセランパサランには内面など無い。そんなものは必要無い。ただ、その存在自体が、確率の壁に挑む意志そのものであるだけだ。闘いに敗れれば枯死し、勝てば発芽するというだけだ。
ポケモンは風に揺れない。ケセランパサランは揺れる。そして去る。
雲はいつの間にか無くなっている。
 高架上を列車が駆ける。駅に近付いても減速する気配が全くない。特急か特別快速か、もしくは回送列車だろう。

いいなと思ったら応援しよう!

青条
詩的散文・物語性の無い散文を創作・公開しています。何か心に残るものがありましたら、サポート頂けると嬉しいです。