浪江海の男酒磐城壽×閖上宝船浪の音/沿岸部復興に賭けた男たちの誓い_vol.2福島
私は、かつて1997年頃から約10年間、FM福島で毎週金曜日17:00〜30分間「ふれあい福島サウンドフリーウェイ」(国土交通省・JH日本道路公団提供番組)のパーソナリティとして福島県内の情報をラジオでお届けしていました。
当時番組のプロデューサーでありコーディネートを担当されていたのが布袋様のような笑顔の菅野新也氏(現在オリエンタルSK株式会社の代表)。福島出身の菅野さんは、人脈も多岐に渡り幅広く、福島のディープな魅力をよく知っていて、取材に行っても新たな発見に心ときめいていました。
アクアイグニス仙台で全国御礼物産フェアの第二弾は福島!と決まった時、菅野さんにコンタクトをとり15年ぶりの再会を果たしました。
今回は福島県内の沿岸部に焦点を当てて物産フェアを開催することを伝えると、浪江の請戸まつりや田植え踊り・・・沿岸部の復興を見事に果たした鈴木酒造さんのことを教えていただき、今回のイベント実現に向けて、大切な方たちとのご縁を繋ぎをくださり、心から感謝いたします。
同席していたアクアイグニス仙台平間支配人はひらめきと決断力が早く、その場で、仙台でも同じ思いをされた佐々木酒造さんがいらっしゃるで、そのお二人の対談が良いのでは。
そんな会話のきっかけから実現したのが2月25日のイベント
和食と日本酒の饗宴
「笠庵賛否両論仙台×浪江海の男酒磐城壽×宝船浪の音 特別壽会席」
和食と日本酒の宴は集う人の心を解放して良き宴を作り出してくれました。
そして、私のもっと聴きたい!!で、酒蔵の復興を遂げた福島県鈴木酒造鈴木社長と宮城県佐々木酒造佐々木専務のお二人のインタビューが実現しました。
「浪江海の男酒磐城壽×閖上宝船浪の音/沿岸部復興にかける男たちの誓い」
小松:
インタビュアーの小松です。改めまして、浪江鈴木酒造店の鈴木大介社長そして、閖上佐々木酒造店佐々木洋専務よろしくお願いします。
今振り返る13年前。その時のことを改めて聞かせていただいてよろしいですか。
鈴木社長:
鈴木酒造は原発事故も重なり、避難先から映像でしか被害状況を知る由がなくて・・・皆がバラバラになって、途中途中で地域の人たちと会うと、誰がいない、どこで見たかと・・・コミュニティが一瞬にしてなくなったので、あの時は、とてつもない喪失感があった。
佐々木専務:
大津波の中、屋上で垂直避難をして被害から自分は回避したんですが・・・ふるさとが目の前で破壊されていく・・仙台空港は大海原になっていて、防災無線とサイレンの機械的な音が鳴り続けていた。
自分の酒蔵も流されて、造ったばかりの酒のタンクがひっくり返って・・その時の心境を正直に言えば、聖書の黙示録が来たというイメージだった。
そういった中でもこの町は再生できるって直感的に思った。多分20年かかるかもしれない。いや、でもできるはずだ。もう一回この町で酒づくりをしようってそのときから思っていました。
次に思ったのは、日本は2回の世界大戦があり、震災も数多く各地であり、その中で先代の爺さん婆さんたちは、その度に町を復興させてみせた。その遺伝子は我々にも入っている。だからできないわけがないと思った。
鈴木社長:
佐々木さん、それって聞かされた?
私も長男坊だから、蔵の昔の歴史を聞かされて育った。戊辰戦争で持ち船が拿捕されたり、復活蔵で戦争では免許を返納している。戦争で軍事物資に変えるために、ちっちゃい蔵だから一度閉じたこともあった。今一緒に仕事をしている弟は、そういうことを聞かされずにきている。
佐々木専務:
あーそれわかるわ。本当にわかる。
鈴木社長:
戦後の苦労話や土地の話とか・・・
長男だけが、機会があるたびに聞かされてきた。
小松:
家業を継ぐ者として、確実に遺伝子に刻まれた役割があって、いつの日か自覚させられていたということですね。
お二人とも、復興に向けて、必ず成し遂げたい強い思いがあったようですが、それは、どのように戻っていくとイメージしていましたか。
佐々木専務:
閖上は漁師町でありながら、もう人口も減って、町自体に伸び代がなくなってきていた。
あの震災で全て破壊されてしまった。全て破壊されてしまったということはもう一度創造することができる。そっちの可能性を私は強く感じたんです。
小松:
それはどんな可能性でしょうか。
佐々木専務:
既存の古いものを破壊しない限り新しいものが作れないっていうのがやっぱり日本の地方都市の難しいところで、それで変な話ですけども持続可能な町を作るためのチャンスなんじゃないかと考えた。取り戻すというより、創り直す。創造する。
鈴木社長:
もう簡単じゃなかったですね。誰がどこにいるのか。安否もわからない状態で避難している。地域の人は、浪江町はおそらく10年人は住めないだろうと言われていた。
でも地域の人は「戻れない」と言葉にしたら、それが言霊になって、本当にそうなってしまうことを恐れ、皆そのことばを口にしなかった。
代わりに私にかけてくれた言葉が浪江に住んできた者たちのアイデンティティを保とうとする気持ちか「浪江の酒を残してくれ」と発せられる・・・
その言葉は背中を押されているようで「やる」と答えるしかなかった。でも、土地がないことは何においても根拠がない。それは何よりきつかった。
佐々木専務:
町に住んでいる人は、どの年代が厚く多いか。誰の声が大きいか。それを拡声するマスコミの影響力も大きかった。
震災はいろんなことが起きる。自分たちのことなのに、自分たちで決められないことが起きる。
担保できる物が流されて銀行からの融資が受けられない。町を創り直すことは容易ではなかったですね。
小松:
復興に向かうのは並大抵なことではなかったと思います。そんな中、お二人にとって先が見えた、光が見えたと感じたのはどんな時ですか。
鈴木社長:
失ったと思っていた。
地域とのつながりも、何もかも無くなったかと思われた。
そんな時に、酒を作る製造工程にある「酒母づくり」という酵母を育てる工程で伝統的なやり方があるんですが、それをたまたま研究機関に預けていたものが残っていた。試験用に残していたそこからうまく酵母が取り出せて、200年くらいの、うちの蔵の歴史が詰まっていて・・何もかも無くなってしまった中で、うちの蔵の歴史が残っていた。
酒母が残っているとわかった時に、何かしらこれでやっていける光のようなものが見えた。4月1日のことです。
震災直後、四季醸造と言って1年を通して酒造りをしている西日本の蔵を何件も回った。一人で酒造りに取り組んでいる神戸の蔵に行った時に、自分が思い描いていたやり方がそこにあった。
あまり資本がなくてもやっていけると確信のような自信が持てた。
その時言われたのが、商いをやっていたら商いで身を起こさないと信用がなくなると言われ、背中を押された感じがした。
小松:
酒母が残っていたのは奇跡的な出来事ですね。そして鈴木社長が歩みを止めることはなかったんですね。
佐々木専務にとって先が見えた、光が見えたと思えたのはどんな時でしたか。
佐々木専務:
心がバキバキに折れていなかった。自分にはできるはずだ。なぜなら日本はかつてもそうして立ち上がってきた。不動産も建物も設備も、造ったばかりの酒も全て流されたけど、俺が生きていればやれるはずだと思った。
大介さんが言ったように、商いは全て信用で、信用は継続するから生まれる。
たまたま垂直に浮き上がって着地したタンクがあって、そのタンクから酒を抜いて震災復興酒として販売した。
佐々木酒店は酒造りを諦めない。閖上でまた蔵をやると決めた。
日本の醸造技術はとても高い。震災の中、計画停電もあったので電気があまり使えない中で、温度管理ができる醸造設備を作れれば、自分たちでも小さい量の仕込みであればやれるんじゃないかと考えて仮設の酒蔵を作ってみようと思った。7年そう思い描いたが、偉い方達からは「人の口に入れるものだからうまくいかない」と多くの反対を受けた。でも、そう言ったチャレンジが、のちに続く災害で被災してしまう伝統産業、食品産業、発酵産業とか、自分たちのやり方が実現できれば、地元の食文化を残すためのノウハウとしても活かしていけないかと考えた。
結果、飲めるものができたし、評価をもらうことにもつながった。酒造りがきちんとできたことが大きな自信につながった。仮設から本設に復旧するやり方が復興の形として残せたのかと思う。
小松:
最初に復興酒を出した時、地元の人たちの反応はすごかったんじゃないですか
佐々木専務:
すごかった
被災前の酒蔵のお客さんは、飲む人たちの顔が一人一人浮かぶくらい。
それが全くなくなって、誰が飲むかわからない。
でも、宮城県の人や地元の人、全く知らない人たちがうちの町に酒蔵が残ってよかったとが感謝を伝えてくれる。土地に残る「波の音」がまた飲めると喜んでくれた。その反応を見て、代々お客様に愛されてきた酒なんだと改めて知ることができた。
鈴木社長:
地元で作ることは断念するしかない状況だったので、会津の酒蔵で震災の年の7月に酒を作っている。新盆を迎えるときになんとかお酒を出したいと考えた。
先輩が、娘が避難中に出産したけれど、祝う気持ちになれずにいたが「壽」が出るときいて買いに来たと言って店に並んでくれた。
その様子をみて、一度きりではダメだ。続けるためになんとかしたいと思った。すぐに「磐城壽」を出すために、酒を造る環境の整っている山形にいくことを決めた。地元の人たちに力をもらって決断もできた。
小松:
皆が心待ちにして大事に紡いできた日本酒を絶やすことはなかったんですね。ところで「これから」ってどうなっていくと思いますか。未来をどんなふうに描いていますか。
鈴木社長:
地方の時代だと思っている。地方の魅力は何かしらものづくりの現場がそこにある。震災でみんなリセットされたかもしれないけど、その中でも新しいことやものづくりの歴史が始まっている。人の暮らしぶりがわかる酒。作っている人の気持ちが丁寧に伝えていけたら未来は明るくなるんじゃないか。原発が近いだけで風評は付き纏っている。けれど、その中で美味しいもの、安全なものを口に入れて「美味しい」と言ってもらえた瞬間、それがなくなる。
佐々木専務:
私も楽天家なので、未来は明るいと思っている。大介さんと同じようにこれからは地方の時代だと思っている。人が体を動かして体験することに価値がある。
土地のものをその土地で食べるから、はじめて価値がわかる。意味がある。
これからは、素晴らしさがわかる時代が来ると思っている。本物はこの土地に来ないとわからない。その土地唯一のものを私たちは作り続けていく。ネット社会は情報交換も盛んでスピードも速い。そうではない交流の仕方が地方にはある。日本の文化でもあるおもてなしの精神性を酒蔵を通して発信できればと思う。
鈴木社長:
時間の積み重ねが新たな歴史を作り上げていく。誇りをもって作っていく。
小松:
これから益々たのしみです。残していく。伝えていくって言葉で言うのは簡単だけど、それを諦めずにやり遂げていくお二人から直接お話を伺うと、なんだか不思議と力が沸いてきます。
佐々木専務:
変わらずにありづけるためには変わり続けないといけないという矛盾。地元のコメと水と地元の食に寄り添う酒を150年続けてきた誇りがある。変わらずに続けるためにはチャレンジしていきたい気持ちはある。
小松:
復興の中で日本酒はどんな役割を果たしているんでしょう。
佐々木専務:
人との触れ合い。祭を通したつながりのなかで、世代を超えた交流に酒が介在している。田舎ほど、小さい頃から祭りという風景が憧れで、そこに、伝統の継承も根底に植え付けられていく。
馬力を出さなくちゃいけない時に酒が力になってよかった。神社の氏子衆は復興神輿を社務所がない中、それでも担ぐ時に「波の音」があって、まさに酒は男の力水になった。神様の力を得るための行為、直会(なおらい)があるが、神社と酒は繋がっている。祭りがあって、神社があって、酒が介在している。
祭りは儀式。昔から豊穣に感謝して、昨年取れた地元のお米や水で作った熟成した酒を捧げ、神様の力が宿った捧げものを今度は身体に入れて、無病息災でお仕事をする。そして、また神様に捧げる。その循環の中に1年がある。
そういった敬う。目に見えないが土地に宿る私たちを守り包んでくれるものに感謝しながら在るのが、昔からの慣わし。
上から下に盃を分ける。それを子供の頃から見ていた。大人になりたいイメージがお酒の中に残っている。まさに復興の力水が日本酒。
鈴木社長・佐々木専務:
やれることはいっぱいある。
やりがいがある人生です。
これからも日本の食文化の発信続けていく。
小松:
震災から13年が経って、風化させない、残していく、創り上げていく。そんな気持ちが高まる時間になりました。今日はありがとうございました。
起きた出来事は簡単なことではありません。失うのは一瞬であり、創りあげるには地道な積み上げが必要となります。
復興を実現するために最も大切なのは「人」だと改めて感じました。
私も微力ながら、復興のシンボルであるアクアイグニス仙台で役割の一助を担っていこうと改めて思いました。
追記
最後に酒造蔵のお二人がおすすめする家飲みの日本酒はとお伺いすると
鈴木酒造の「壽」純米酒 佐々木酒造「波の音」純米酒
それも温めて飲むのも良いとのこと
そして、その日本酒のお供となる「つまみ」「あて」を伺うと
鈴木酒造さんの秘蔵あて
筋子をガーゼに包んで、ネリかすと味噌を挟む。
味噌入れないとそのまま粕漬けになる。
佐々木酒造さんの秘蔵あて
穴子を開いて、穴子に薄く砂糖をまぶしてガーゼに巻いて酒粕に漬ける。
非常に風味豊か。焼いてもよし蒸してもよし
おーこれは試さずにはいられません。
アクアイグニス仙台「笠庵」で、ご紹介のレシピメニューと日本酒を、どなたにも楽しんでいただける機会があると嬉しいですね。
その日をご期待ください!!
アクアイグニス仙台で行われたイベント
和食と日本酒の饗宴
「笠庵賛否両論仙台×浪江海の男酒磐城壽×宝船浪の音 特別壽会席」