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私が楮(こうぞ)に出会うまで【前編】

遠回りした挙句、私は楮という植物の存在を知り、栽培・加工の担い手として関わりを持つようになりました。そこにはいくつかの偶然や大切な気づきがありました。ちょっと長い前置きですが、私と楮が出会うまでのお話、どうぞおつきあいくださいね。

製造業の開発現場の裏で見えてきたもの

私は以前、自動車メーカーに勤務していました。所属はIT部門で、設計者や解析担当者の業務が円滑に進むよう、開発部門にソフトやハードなどITリソースを提供したり、エンジニアリングに特化したソフトの開発や運用を担当していました。

私が勤務していた19年の間、時代に応じて求められる自動車の機能や性能やデザインは少しずつ変化していました。しかし、一貫して現場で求められていたのは、部品のコスト(単価)とウエイト(重量)の最小化、そして開発期間の短縮でした。

その当時私が担当していたのは、衝突安全やエンジン出力といった性能を保証する開発者のサポートでした。厳しい要件を期日までにクリアするため、コンピュータ上で試行錯誤が繰り返されます。そして最終的に試作車やベンチと呼ばれる台上実験場の実機で、既定の性能通りに条件をクリアしているか証明します。根気とプレッシャーの要るシビアな仕事です。ひたむきに誠実にモノと向き合うエンジニアたちの助けになりたくて、ツールや様々なリソースを提供することで応援してきました。

ところがいつしかそんな現場をみているうちに、ふとある疑問を感じるようになったのです。

自動車の製造過程で使用される多くの原料やエネルギーはやがて枯渇することが予測されている鉱物資源や化石燃料です。もちろんそれらが無くなるのは、私たちが生きている間ではないかもしれません。でも何も考えなしに地球から長い時間かけて生まれてきたこれらの資源を無尽蔵に使い続けていたら、どうなってしまうのでしょうか?。賦存量は予測であって正確な値は誰にもわかりません。いつなくなってしまってもおかしくないのです。

もちろん当時も燃費など環境指標に関する性能の担当者などそのことだけを真剣に日々考えているエンジニアもいました。しかしそれ以外のエンジニアや作り手である一人一人のほとんどがそういった大きな流れやつながり全体を気にすることなく、自分の担当する一部分しか見えていませんでした。それぞれの日々の業務に忙殺されすぎて、それどころではなかったのです。

奇しくも一歩引いた製造業の現場の裏方として、部門の領域をまたいで見る立場であったからこそ、分断された組織構造から見えてきた課題や、持続可能な資源の使い方や消費のありかたを考えなくてはならない時代が来ている事実に、気づけたのかもしれません。

ものはどこから来て、どこへ往くのか

自動車に限らず、私たちの身の回りには、今の生活に欠かせないもののほとんどが限りある地球の資源から作られています。しかし私たちは普段それを意識することはほとんどありません。材料が運ばれて、たくさんの工程や下請け会社によって支えられた分業によって部品が作られて、それらが組み上がって、製品となって運ばれて、私たちの手に渡るまで。そして、使い終わった製品を手放した後に、知らない誰かに廃棄やリサイクルする工程を任せているうちに。そのようなたくさんの人を介して複雑なプロセスを経るうちに、「あらゆるモノは、地球からいただいて、やがて地球へ戻している」というつながりが、どうやら全く見えなくなってしまっているようなのです。

短期間で循環的に利用できる資源とは

この事実に気づいたとき、私は深い衝撃を受けました。

ものづくりを担う責任をもつメーカーだけでなく、それらを購入して使う消費者である私たちひとりひとりが、日常の中の「当たり前」や「必要」や「必然」の裏側にある、有限な資源やそのルーツに目を向け、地球にかかる負担を最小限にするような手の入れかた、手放しかたについて意識した消費に目を向ける必要な時代にさしかかっているのではないでしょうか。

やがて私は、資源量とニーズのバランスや、より持続可能な原材料を考えて消費する意義や、成り立ちやつながりを理解した上で安心して使用できる素材や、使い終えて手放した後にすんなりと地球に還る素材のあり方について等、地球と私たち人間の両方に優しい原材料はないものかと関心を持つようになります。そこで着目するようになったのが植物由来の有機性資源、バイオマスなのです。

【後編】へつづく



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