自己はVR空間において「デザイン」可能か?(前編)
※本文に入る前に
この記事は、前後編になっています。
前編は主に自己と自分以外の他者全般である周囲におけるアバターについての考察を展開し、後編ではそれらを踏まえた実践的な考察やアバター自体に的を絞った考察を展開する予定です。
著者である私としては最初から読むのをオススメしたいですが、前半は引用や理論チックな言い回しが多く、読み物などから疎遠になっている方だと読み通すのが難しい可能性があります。その場合は無理せずに後編から読み進めて頂いてかまいません。実際、お砂糖の話やVR上での表情など、アバターらしい話題は後編の方に多いので……。
では改めまして、本文を始めさせていただきます。
導入
皆さんこんにちは。Fronと申します。
本文を見ている皆さん(私はVRChatterを読者に想定してこの記事を書いています)は私も含めておしなべて何かしらのアバターを使用しているだろうと思います。この記事は「メタバース進化論」を先行研究としていますが、そこで主にデータが引用されている「ソーシャルVR国勢調査2021」によると、調査した全体の89%が人間もしくは亜人間(「動物の耳や尻尾や羽が生えているなどファンタジー要素のある人間型」と本文中では定義されています)のアバターを使用しているようです。私も一応VRChatterの端くれですが、実際「カリン」「ラスク」「桔梗」「Ash」などの比較的人気の高いアバターはこのどちらかに属していることが多く、これらを自分で改変して使用しているユーザーをよく見かけます。
私がよく訪れているVRC上の哲学カフェでは皆が話題を持ち寄って、普段の会話では話せないような事を深入りしながら話したりするのですが、そこでもアバターというのはよく議題に上がる話題の一つです。「何でそのアバターにしたの?」と周囲にいる人に問いかければ、同じ質問でもそこにいる人によって毎回色んな理由や意見が飛び出してきます。私もそのような場に居合わせたことは何度もありますが、その度に新鮮で面白いものです。
しかし、私が本文を通して主に考察したいのはそこで行われるユーザーの趣味趣向の情報共有ではありません。私がこれから取り組もうとするのは以下のような問いに様々な補助線を立てながら近づいていくことです。
「VRC上におけるアバターとはどういう存在なのか?」
確かにアバターという話題はVRC上の哲学カフェでも取り扱われることがあるでしょう。しかし、このような問いに対しては「全体的には~」と一般論を述べるに留まったり、「結局はその人次第だよね」と流されてしまう(否定はしませんが……)ことが多いのが実情です。私はそのような現状を踏まえ、本文で以下のようなことを達成したいと考えています。
アバターの存在がVRCにおいてどのような関係を形作っているのかを明確にし、それを踏まえた考察を行う。
その関係・構造の中でユーザーはどのように揺れ動いているのかを考察する。
では、私の問題意識を共有できた所で早速本文に入っていきましょう。長くなりますがお付き合いいただけると幸いです。
序章.本文におけるアバターの定義と方法論
1.アバターの定義
ではまず、アバターとはそもそもどのような定義がなされているのでしょうか?wilpediaより定義と語源を引用すると以下のようになっています。
定義に関してはVRchatterの皆さんなら納得出来る物だと思うのでここでは示すに留め、アバターの語源の方に焦点を当てていきたいと思います。私がここで注目したいのは、アバターの語源が化身であるということです。では、ここで指示されている化身とは具体的にどういった存在なのでしょうか?
ここでの文脈ではおそらく3が適任でしょう。
つまり、アバターとは何かの概念を体現する存在なのです(以下特に断りを入れない限り、本文ではアバターをそのような存在であると定義します)。
また、本文において何かが「現れる」と表現した際には、「自分と関係を持ち、それが把握出来るようになる」といった意味合いで使用しています。
2.方法論
では、どのようにしてこのアバターについての考察を進めていけば良いのでしょうか?この方法論について私の中でもそれなりの葛藤がありましたが、最終的に私はアンケート調査などの大規模調査を行わずに、ユーザーの一人一人に寄り添った形でアプローチすることにしました。
確かに前述した初の大規模調査である「ソーシャルVR調査2021」においてヨーロッパ、北アメリカ、日本のユーザー回答1200件を分析した結果が「メタバース進化論」では多く取りあげられており、第四章「アイデンティティのコスプレ」と第五章「コミュニケーションのコスプレ」の二章に渡ってメタバース原住民の生活実態や文化が沢山紹介されています(VR飲み会やVR睡眠などが実際紹介されていました)。私自身も実際読んでいてその数字に肌感覚で納得する部分は沢山あったように思えます。しかしながら、統計的なデータを基にバーチャル美少女ねむさん自身の所感が加えられてはいるものの、そこで現れている実態や文化というのはあくまでもメタバース原住民の一般的な在り様です。それでは本文の目標の二番目である『その関係・構造の中でユーザーはどのように揺れ動いているのかを考察する』を達成することは出来ないのではと思ったのです(私独力ではこのような大規模調査を行うことが難しいというのもありますが...…)。
よって私はまず3つの方針を立てました。
①VRC歴が長い数人のVRchatterに了承を得た上で1対1でのインタビューを行う。
②ユーザーが自身に内在させている葛藤や曖昧さを露呈する。
③その結果に私個人の考察を加えることで本文の目標を達成する。
第一章以降ではその方針に基づいて実施されたインタビューを参考にしながら、考察を進めていく次第になります。
第一章.自己に対するアバターの現れ
一章では序章でなされた定義と方針を元に、アバターが実際に自己(ここでは、そのアバターを使用しているユーザー自身)との関係においてどのように現れているのかをインタビューを通して考察していきたいと思います。
1.「メタバース進化論」での関連内容
私の考察を展開する前に、「メタバース進化論」での関連内容を抑えておこうと思います。第四章「アイデンティティのコスプレ」において、バーチャル美少女ねむ氏(以降はねむ氏と呼称)はソーシャルVRにおけるアイデンティティについて以下のように述べています。
ここでねむ氏は「アイデンティティのコスプレ」という語を使用しながら、メタバースにおいてアイデンティティはデザイン可能なものでありながら切り替え可能であるという見解を示しています。すなわち、これによってメタバース世界(VRSNSも勿論含まれています)は外的要因(年齢、性別等)から自由な空間になるということです。しかしながら、単にそのような消極的自由であれば2chのような掲示板やSNSで問題なく可能ですし、わざわざメタバースにこだわる必要はありません。年齢性別外見等が不詳な存在、というだけならX(旧Twitter)でもありふれているほど存在しますから。私が思うに、メタバース空間をメタバース空間たらしめるのはそのように自由なメタバース空間において自己をどのように表現するのか?という積極的な姿勢でしょう。無論、その場においてアバターは大きな役割を果たすことになります。では、実際にユーザーに対してアバターはどのように現れているのでしょうか?
2.アバターの解釈類型の考察
序章において、私は『アバターは何かの概念を体現した存在』であると定義しました。おそらくですが、皆さんも今までに一度は「自分はアバターで何を表現したいのだろう……」と考えた事があると思います。まずは「VR上におけるアバターは自分にとってどのようなものなのか?」についての回答類型を見てきましょう。
どの回答も他の回答と似ている部分が多いので、複数の観点から少しずつ切り分けながら考察していきます。①は字義通りに受け取ってしまうと単なる事実になってしまうので、ここではあくまでも比喩として捉らえて考えてみましょう。アバターをVR空間の肉体として捉えるこの回答は②③の基盤となるような解釈です。よって、この回答から他の回答への解釈を進めてみましょう。
まず、「アバターはVR世界(メタバース空間)での肉体である」という解釈は現実世界とVR空間の距離感を近づけるような解釈では必ずしもありません。また、「アバターは自分の一部である」という解釈はVR空間を現実世界の延長線上に位置させることで自身が現実世界で保持しているアイデンティティを基に現実世界とVR世界の境目を取り払うように働きますが、「アバターはVR世界(メタバース空間)での肉体である」という解釈ではアバターはVR世界という独立した空間内での自分であると解釈することが可能です。それによってより強く「アイデンティティのコスプレ」のような性格を帯びるようになります。
ここにおいては現実世界との連続性というよりは、むしろ積極的な姿勢が強調されています。
その点「アバターは服や化粧のようなものである」と言う解釈は他の回答と比較しても特異で、自身とアバターの関係性はあくまでも自分の趣味趣向を体現してはいるものの、自分とイコールという訳ではありません。
3.解釈類型への考察の限界と方針転換
……本文を書いている自分が言うのもアレですが、イマイチパッとしないですね。何故なら、私が思うに、このように類型を解釈によって差別化する試みは今回のような「現れ」を考察する上では行うこと自体は可能でも、いくつかの理由で実際にはあまり意味を持たないのです。何故なら、
① その人にとってのアバター解釈というのはその人に対するアバターの「現れ」そのものであり、それを第三者的な視点から考察するのは本文の目的ではないこと。
② そもそも、これらの解釈は明確に対立しているという訳ではなく、解釈次第で複数の立場を同時に取ることが出来てしまう(VR上の肉体と捉えながら服を着せる素体として捉えても特段問題ありません)上、その人としても自分が示した解釈の中に常に収まっているというわけでもないので、解釈類型の差別化を図る試み自体がどうしても陳腐化してしまうこと。
③ 以上を踏まえてむしろ、そのような曖昧さの中にアバターの「現れ」が存在するのでは?と考えたこと。
以上の三点から、このような類型を解釈によって差別化する試みは断念する形になり、当初のアプローチは挫折した形になります。しかし、その過程を経る中で分かったこともあります。
第一に、アバターと自己の関係性は、まず自己保有している概念(元来のアイデンティティ、信念、趣味趣向など)をアバターに向かって一方向的に投射する形で現れる事。例えば、ねむ氏のように「美少女になりたい!」と考えながら美少女アバターを使用するなどが挙げられます。
第二に、この時にアバターはユーザーの手中に収まったもの、つまりはデザイン可能な物として現れるという事(この段階ではまだ周囲との関係性を考慮にいれておらず、そのためVR世界との媒体となるような役割を果たすには至っていません)。アバターの編集にはunityやblenderなどのソフトウェアを使用する事が多いので難易度が高いのは確かですが、それさえ克服したり回避したり(外部委託するなど)すれば、自分の思想や願望をアバターに対してフルにぶつけることが出来ます。
この二点はねむ氏が既に引用個所において述べたことですが、本文全体を通して重要な役割を果たすでしょう。
ここまでで、『アバターは何かの概念を体現する存在』であるとした序章一節の定義は確立され、形式化されました。しかしながら、今だその内容は定まっておらず、宙に浮いたような状況になっています。そこで、私は今度は周囲に目を向けて、アイデンティティや身体性という別の観点から考察を展開していき、理解を深めていきたいと思います。どうしても初心故に思考がジグザグしますが、どうかお付き合いください。
第二章.アバターが化身たりえる場
1.概要
私たちは現実においてもVR空間においても、他者(ユーザー)と共同存在している以上、そこでは絶えずコミュニケーションが生起しており、そんな中で私達は存在しています。VRChatはVRSNSですから、アバター改変やワールド編集、ワールド巡り、写真撮影などの様々な楽しみ方があるとはいっても、その終着点は再びコミュニケーションに落ち着く人が多いのではないでしょうか。これは私見ですが、お砂糖文化がVRCをVRCたらしめている文化であるのはこの辺りに一因があるのではと思います。
少し話が逸れましたが、本文においては何よりも現実とVRSNSのコミュニケーションを大きく変容させている第一人者がアバターであり、自己と周囲(自分以外の他者全般)を媒介する役割をさしあたりは果たしていることが重要です。つまり、相手に対してまず最初に自分の概念を働きかけられる存在でありながら、コミュニケーションの中で自分の非言語コミュニケーションを代理するなど、自分と周囲の関係を取り持つ役割も持っているということです。
第一章三節においてアバターというのは自己との関係性において『自己保有している概念をアバターに向かって投射する』という一方通行なものでしたが、ここで他者の視線が介在することで、それはVRSNSにおける「アイデンティティ」になる可能性を秘めることになります。つまり、本章の結論としては、自分がアバターを通してVRChatという空間においてアイデンティティを得て(つまり、空間内において有意味な存在として)存在できるのは、コミュニケーションの中で絶えず存在する他者との共同空間に限られるのです。少し難解な文章になってしまいましたが、本章ではそこに焦点をあてながらこの文の意味を解きほぐしていきましょう。
2.私"の"アイデンティティ
序章において、私たちは『自己保有している概念をアバターに向かって投射』することによってアバターを自分の関係性の中に位置づけることが出来ると説明しました。しかし、そこに他者の視線が介在している場合、それだけでは他者との関係性の中に自己のアバターを位置づけることは出来ません。つまり、アバターは自己に向かって存在しながら他者に向かっても存在しており、その二面性があらゆる場において複雑に絡み合いながら存在しているのです。このような自己と他者の関係性を現象学、臨床哲学の観点から論じているのが鷲田清一氏です。鷲田清一氏は著書『「聴く」ことの力』において、以下のように述べています。
この引用文において、アイデンティティ(自己同一性)が存在できるのは『他者によって、あるいは他者を経由して』であることが明言されています。つまり、もし私が『自己保有する概念』を体現するアバターを自作(もしくは改変)してVRChatにおいて使用したとしても、それが私”の”アイデンティティを体現するか否かは他者に委ねられているという点で未だ不確定なのです。また、ここで使用されている『私”の”アイデンティティ』という語は『私がアイデンティティを所有している』ということを意味しないのも重要です。あくまでも、この語はここにおけるアイデンティティとは他者との場(すなわち共同空間)において現れているものを便宜的にそう呼んでいるに過ぎず、常に揺れ動いているという点で均一な物でもない存在なのです。
ここでまず問題になるのは、第一章一節で引用した「メタバース進化論」でのアイデンティティの取り扱いです。既出ですが、内容を振り替える意味を込めてもう一度引用します。
この文章内ではアイデンティティがこちら(自己)からデザイン可能なものとして言明されている点は第一章一節で既に指摘しましたが、本章の内容を踏まえると、デザインしているそれは「なりたい自分」にすぎません。確かに「なりたい自分」というのはアイデンティティになる可能性を秘めている存在ですが、デザイン可能なのはあくまでも「なりたい自分」であって、その先に延びているアイデンティティそのものではないのです。
3.「脱・外的要因」≠ニューゲーム
しかしながら、『そうはいっても、「なりたい自分」を自分でデザインできるということだけでもすごいんじゃない?』と思う方もいらっしゃると思います。確かに。私も時折思うことがありますが、VRSNSというのは現実よりも圧倒的に自由度が高いです。
その中でも、かなり多くの人が挙げるVRSNSのメリットとしての「外的要因(年齢、見た目、声、性別等々)」からの自由は「メタバース進化論」でも言及されている通り、VRSNSをVRSNSたらしめるのに欠かせないものです。例えば、VRSNS上では現実の自分ではどうやっても再現不可能な見た目をしたアバターを自分の身体として利用したり、その中で現実の自分では絶対にしない言動、行動をしている方もおそらくいらっしゃるでしょう。
ですが、それはVRSNSが現実空間から独立して存在しているということを意味している訳ではありません。私がここで明確にしておきたいのは「VRSNSを作り出しているのはVRヘッドマウントやインターネットなどの現実世界の産物である」といった物理的な問題ではなく(つまりは個人に対する現れとしてであっても)、私たちはVRSNSにおいてまっさらな状態からニューゲームを始めているわけでは無いということです。無論、外的要因という言葉が存在するのと同じように内的要因(性格、言葉遣い、立ち振る舞いなど)という言葉が存在し、この二つは相互干渉的に関係を持っています。すなわち仮にその外的要因から脱したとしても、内的要因からは未だ逃れられないのです。例えを出すならば、現実空間においてコミュニケーションに問題を抱えている人が「VRSNSなら私を理解してくれる人がいるかもしれない!」と考えてVRSNSに飛び込んだとしても、その本人がその問題を直視しようとしない限り、VRSNSでも同じようなことが起きるのは想像に難くありません。しかしながら、だからといってVRSNSは必ずしもその人に無力であるというわけでもありません。VRSNSで出会った人たちの影響などを通してその人が心を入れ替えて生活した結果、どちらの空間であってもコミュニケーションにまつわる問題が低減される可能性は常に開かれているのですから。その点でVRSNSはそのような問題を改善するキッカケを現実空間よりもコミュニティが広大であるという意味合いでサポートしてくれるでしょう。
以上で、前編は終了となります。後半では第一章と第二章で得られたことを踏まえながら、より実践的な考察をしていきたいと考えています。是非後編もご覧ください。
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