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テレビの現状

 高度経済成長期、長州力と力道山の熱い試合を、日本にいる全ての人が画面に食いついた、そんな時代があっただろう。

ドリフターズのコントが人気を博し、決まった時間にお茶の間に集まってみんなで1つの画面を見た、そんな時代があっただろう。

ワールドカップで日本代表がベルギーにカウンターで負けた。日本国民は1つの画面を見て肩を落とした、そんな時代も最近あった。

そんなシーンを考えてみると、1つの画面には、「みんな」を集める力があった。

その力を持っているものが、「テレビ」である。「みんな」を巻き込むマスメディアであるテレビ。そのテレビの真価が問われている。

いつもの感傷的ないかにもエッセイな語り口とは打って変わって、テレビ業界を志望する就活生として、今回は「テレビの現状」について話してみる。(なお、裏打ちされるデータはなくあくまで推測なのでそこはご容赦いただきたい。)

           テレビ離れの定義のあいまいさ

「テレビ離れ」。テレビの将来性を語る時に引き合いに出されやすい言葉であろう。しかし、この言葉の定義は定まっておらず、ただテレビに関するネガティブなイメージを助長してしまっているのではないか。
そこでテレビ離れの定義を再確認したいと思う。

 その前にテレビの定義も確認しておこう。以外とこの定義も両義性を持っている。テレビとは、「機器」と「番組(コンテンツ)」の2種類に大きく分けられる。これを混同させてしまうとテレビ離れの本質には迫れない。ので機器とコンテンツのどちらの話をしているかは今後、明確に記しておく。


ではさっそく、いわゆる「テレビ離れ」を解明していこう。この言葉には欠落している要素がある。

①誰が離れている?②何から離れている?

この2点の補完を意識すると概ね3つのパターンが見えてきた。


テレビ(コンテンツ)が視聴者から離れている
ここでのテレビとは、コンテンツである。機器が視聴者から離れることは物理的にありえないと考えれるからだ。

テレビのコンテンツが視聴者から離れている。
これは果たしてどうであろうか。言い換えてみると視聴者を惹きつけるコンテンツが減少しているとも言えよう。
これに対しては、私はNoと言いたい。バラエティ番組であったり、ドラマであったりと、未だなおユーザーは関心を持って見ているのではないか。(根拠として、youtuveでテレビの番組が不正でアップロードされ、それを事実莫大な数のユーザーが視聴している。それ以外にも、日本のテレビドラマは世代を超えて人気を保っていると私は思う。この事実を鑑みると、コンテンツそれ自体は視聴者から離れているとは言えない。)

この意味で、①の解釈での「テレビ離れ」は説得力に乏しく現実でない。youtubeやnetflixなどのその他のコンテンツにも引けをとらない質と量をテレビのコンテンツは有しているのだ。みなさんの感覚にも近しいものがあるはずである。


視聴者がテレビ(機器)から離れている
結論から述べると、これが「テレビ離れ」である。視聴者がテレビという機器から離れている。主に高齢者層を除いて、これは紛れもない事実である。
ではその要因はどこにあるのだろうか。容易に考えられる事は

「スマートフォンなど他のデジタルデバイスの普及」だ。


それぞれが固有の画面を有したことにより、テレビ(機器)があったとしても、視線はそれぞれの小さい画面に向いている。
つまり、デジタルデバイスがテレビから視線を奪ったこと、それがテレビ離れの原因なのだ。

要約すると、テレビ離れとは、『デジタルデバイスの普及・視聴によって、テレビ(機器)から、視聴者たるユーザーの視線が離れてしまうこと』と定義できる。

そして3つ目の「テレビ離れ」はこれ以降に出てくるのでしばしお待ちください。

次のテーマは、こちら


          視聴率の絶対性の崩壊

 このテレビ離れが進行していることは明らかで、テレビ局は生存をかけてユーザーの再獲得に乗り出さなければならない。現に、デジタルデバイスでのテレビ視聴という新しいチャンネル作りに各テレビ局は力を入れている。
もしかしたらテレビ局の尽力の結果、上記で定義したテレビ離れはある程度は食い止めることが可能かもしれない。

しかし、それ以上にそもそもの時点で問題になるものがある。      それはテレビ業界の利益構造である。

テレビ局は、利益の大半をCMスポンサーから得ている。そのスポンサーはCMを打ち出す基準として「視聴率」を重要な指標にしている。

しかし、この基準である視聴率こそが、昨今の時代にそぐわない基準になりつつあり、テレビの事業拡大を阻害する元凶になりうるのだと思う。

視聴率とは、ざっくり説明すると「あるテレビ番組を指定されたテレビ所有世帯のうち何パーセントが視聴したかを表す推定値」である。

ここにおける「視聴」の質が変わってきているのだ。先ほど述べた、ユーザーは視線をデジタルデバイスに奪われている。たとえテレビをつけたとしてもスマホの画面を見て、テレビは付けっ放しになっていることも多いのではないか。となると、テレビを「視聴する」こと自体の価値が過去の価値とは異なっている。いつかその変化が顕在化する時がくるだろう。絶対的な指標となっている視聴率の「虚構」にスポンサーが気づき始めるだろう。スポンサーの莫大な投資にたいしての成果が減少していくことだろう。

さらに追い討ちをかけるとしたら、日本の社会は人口減少が見込まれる。言うならば、市場が縮小するのだ。絶対的ユーザー数の減少は、スポンサーの売り上げにダイレクトに影響を与えるはずだ。

 テレビは企業として存続するためには、スポンサーがいないと成立しない。この共犯関係の元では、テレビ局はスポンサーからお金をもらうために視聴率を稼がないといけない。言い換えると、「スポンサーからお金をもらうために視聴率を取る必要があり、視聴率をとるための番組作りをしなければならないのだ。」この共犯関係の元では、テレビ局は「経済価値」のためだけに番組を制作しないといけなくなる。

この構造をそのままにしておくと、今後の人口減にともなう市場縮小やデジタルデバイスの普及など様々な変化から影響を受けて、

スポンサーの「テレビ離れ」が進むことだろう。

この時、テレビは崩壊する。

そうならないためには、どうしたら良いのだろうか?

テレビの未来を明るくするためにはどうすれば良いのだろうか。

テレビを愛するものとして、テレビの未来を真剣に考えています。テレビに関する知見は業界の方のそれとは比肩に値しないことは承知の上で、このnoteを書いています。


それでは、次回は「テレビの未来を明るくするためには?」というテーマで

書かせていただきます。

                             プノンペニスト


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