noteをパートナーに「知らせている/知らせていない」か?
#20240713-433
2024年7月13日(土)
私が目下使っているSNSの類いは、このnoteとX(旧Twitter)だ。
たまたまだろうが、パートナーにそれを利用していることやその内容を「知らせている/知らせていない」という文章を目にすることが続いた。
今のところ、「知らせていない」派のほうが断然多い。
――あれ、そういうもんなんだ。
どちらでもいいと思いつつも「知らせている」派の少なさに驚いた。
私は「知らせている」派だ。
むしろnoteに至っては、夫以外に知らせていない。
夫と知り合った頃は、Blogを――放置したままなので、今もまだインターネットのどこかに存在していると思う――書いていた。仕事あがりの夫を待つあいだも「紙とペンがあれば、私は大丈夫だから」といっていた。
出会ったときから「書く」ことは、私とセットだった。
noteをはじめた当初は、毎回夫に更新した記事のURLを送っていた。はじめは読んでいたようだが、100回を過ぎたあたりで「もう送らなくていいよ」といわれた。その後は夫のことを書いた記事、一緒に参加したイベントで夫にも間違えたことを書いていないか確認してほしい場合しか送っていない。
もし夫がnoteやBlogを書いていたら、私はせっせと更新を確認し、読みにいくと思う。日頃、自分の考えていることや感じたことをあまり口にしない夫だ。どんなことをそのなかに抱えているのか、大いに気になる。
夫に記事のURLを断られて、私に関心がないのかと傷ついたかといえば、そうでもない。
夫はもともと本をはじめ、文章を読まない。趣味関連の雑誌ならば読むし、漫画も多少読むが、私のように外食先のテーブルの上にある調味料ビンのラベルに目を通したりしない。家電の説明書を本のように読んだりしない。
私の記事は1つ1500から2000字だが、その量の文章を読むのがしんどいのだろう。
URLは伝えてある。
読みたくなったら読めばいい、と思っている。
それに、読まなくても構わないと思う一番大きな理由はこれだ。
noteに書いたことは大抵夫に喋っている!
里子である娘の言動に感じたこと。だが、書いているうちに違う見方ができ、実はこうなのかもしれないという気付き。
日々のできごと。
それにまつわる自分の変化。
「Noteに書いていること」と「夫に話していること」に差違がない。
あるとしたら、話しているときの夫の反応による。夫が興味なさげならサックリ顛末だけいったり、途中で切り上げたりする。
書いたことで私はスッキリしているし、聞く気がなさそうなのは毎回ではないし、私にストレスはない。夫だって、仕事から帰って疲れているのだ。ぼーっとTVを眺めたり、趣味の情報を集めたりしたいだろう。ただでさえ、娘が「パパパパ、パパパパ」とまとわりつくのだ。私まで「あのね、あのね」とやったら、重い。
耳と頭を空っぽにしたくなるだろう。
URLを送らなくなった後も定期的にやっていることがある。更新した記事数クイズだ。
「あのね、あのね、noteの記事、いくつになったと思う?」
記事の数を鼻の穴をふくらませていえば、夫は笑う。
「ホント、よくやるなぁ」
へっへっへ。
夫のその呆れたような、感心したような、はたまたどうでもいいようないい方がまたよい。気負わず自慢できる。
世の中、上には上がいるのは知っている。
「はちったら、スゴーイ!!!」
でも、家のなかでくらい、自画自賛させてくれい。
「知らせていない」派の人だって、きっと書くことでまとまった考えや気付きはパートナーに伝えていると思う。
全部でなくとも、その断片はきっと、多分、おそらく。漏れ出ているのではないか。
夫婦のかたちもそれぞれなので、それすらこぼしていない夫婦もいるのかもしれないが、それはまた私の知らない夫婦のかたち。
それだけのこと。
ミステリアスも大事だしね。