塾経営者が、試験が紙であるべき意味を考えてみた
塾講師のあのねです♫
うちの塾は『紙媒体』です。
まず、そのように宣言しておきます。
そして私は『紙媒体』に絶対的な信頼感をおいています。
「最近、オンライン授業に子どもが興味持ったので」
などの理由から主に中学生達が、オンライン授業やPCで授業を進める系の塾に移っていくのを、あんぐりと口を開けて眺めているのですが(笑)、
なぜ勉強を電子画面でやろうと思うのか。
電子画面は、別のことで使えばいいのではないか。
と、そんな風に思うのです。
何故なら、私自身が紙媒体を余すところなく使い切ってきた人間だからです。
いえ、もうハチマキを頭につけて、ガリガリと鉛筆とプリントと格闘させる学生時代を送ってきたのでは、残念ながらありません。
私は紙の楽譜と、子どもの頃から何千枚と格闘してきたのです。
あれは、紙だからあれだけの量の音符と格闘してこれたのです。
私は音大出の塾経営者という異例な経歴なのですが、
音楽大学に入るには、毎日毎日楽譜を読み、テクニックをつけ、暗譜をし、の繰り返しのトレーニングを積みます。
音楽は情緒も必要では、ということもありますが、ここでは動作的な話としてさせていただきましょう。
しかもピアノ科なので、他の楽器と比べ物にならないくらいの音符の量を取り組むのです。
一曲が40ページという曲もいくつもこなします。
暗譜もします。
覚えられなかったり、うまくテクニックがついていかない部分は、書き込んだり計算したり(意外ですが、音楽と数学は密接に繋がっています)、
こなす努力を惜しみなくします。
では、それは電子画面でも可能か…
多分不可能です。
いや、ジャズピアノならワンチャンいけます。
なぜなら、コード進行をみるのにiPadなどを使うのは効率がいいと思うからです。
それはコード進行のみを確認するためだからです。
頭に入れる必要がないからです。
でも、クラシックは違います。
作曲者が書いた音符を一語一句間違えずに、落とさずに、暗記しなくてはならないからです。
紙を指でなぞり、
悔しい気持ちも込めながら、
あるいは愛しさをこめながら、
楽譜を指でなぞったり、
鉛筆(楽譜はシャープペンではなく鉛筆です)で書き込むことに意義があるのです。
そうしながら、数十分の曲を頭に叩き込んできました。
紙媒体のおかげで。
私は学生時代、書いて、間違えても消しゴムで消せる受験勉強がうらやましいとさえ思っていました。
だって、何度でも書き直せる。
でも、芸術はその一瞬をやり直せない分野です。
そこが美しいのですが。
というわけで、紙媒体は頭に入る。
そして、試験も自分の字で書く。
『書く』という動作も脳へ記憶を働きかけます。
『電子媒体』と『紙媒体』では、断然『紙媒体』の方が内容が理解力が高まることは、
実際そのような結果は出ているようです。
ただ、私は実験結果よりも、現実的に理解して欲しいのは
学生の間は、柔軟なスポンジに水をたっぷり吸収できるように、
『知識を暗記できる力を高めた勉強に励んで欲しい』
ということです。
なので、勉強とは『紙媒体』で、『試験も紙』なのである、という持論でもいいし、
まさに『自論』です。
私のように人生も半世紀に来た人間は、
もうスポンジではなく、
頭は軽石のようになり、
なかなか水分(知識)を吸収しづらくなってきました。
でもかつてはスポンジでした。
スポンジの頃に頭に入れたものが、今私の血となり肉となっています。
古の時代から紙媒体は暗記。
昔から暗記には紙媒体なのだから、
間違いであるわけがありません。
それから、
人はなぜ勉強するのか。
それは、試験に受かるためだけではなく、高い学歴を持つためだけではなく、
人生を楽しく、深めていくためでありたい。
そう、これからの人達に伝えたいと思います。
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