生還 : 憐れみの3章


この映画を見る前の週に、哀れなるものたちを見た。その映画を僕に勧めてくれた人にはもうこの憐れみの3章の話はできなくなってしまったので、ここに書いておく。覚書程度だけど。

タイトルの通り3つの章からなる3時間ちょっとのこの映画、見ている間じゅうずっとsanityとinsanity、(正気と狂気と言ったらいいんだろうか)の狭間にいるような感覚だった。自分が正常だと思っていることが異常なのか、異常な状態が続いているのが正常なのか、映画館にいる間じゅうその境界がどんどん曖昧になっていって、自分と自分の周りが果たして正気を保っているのかが分からなくなってしまった。

今作のような、没頭できる素晴らしい映画を見た時に、この映画が何を伝えたいのかや特定のシーンの象徴性の話をするのが映画評なのだと思う。でも僕はRMFが何を表しているか最後まで分からなかったし今考えても分からない。無人島の漂流から帰ってきたエマストーンが本当はなんだったのか、正気だったのは彼女なのか旦那のジェシープレモンスだったのか、もしくは2人とも正気を失っていたのかは議論の余地がいくらでもあるし、結論はもしかしたらないのかもしれない。

結局なに一つ自分の中で消化したり結論が出ないまま終わる映画だった、あるいはこの映画を理解するには自分の脳が足りてなかったのかもしれない。ただ一つ自分の中にはっきりと形を持って残っているのは、この映画を見たあと、終電間際の梅田の駅を歩いて帰る途中お気に入りのPodcastをイヤホンで再生した時に、台湾のグルメ情報の話をパーソナリティ達が楽しそうに話しているのを聞いた瞬間に訪れた「ああ、自分の現実に生きて帰ってくることができた。」というとてもとても大きな安堵だけだった。


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