日記 25/2/28(金曜日
夫は、魚釣り。
朝ごはん; 私は2回に分けて、食べました。お茶漬け。果物。チョコレートの洋菓子。
昼ごはん; 焼き肉定食。
夜ごはん; スーパーで購入したお惣菜。その他。



今日。私は、家で行う生活の作業と仕事を午前中に済ませる予定でした。予定通りに頑張り出来ました。
混雑回避を目的として午後13時頃に『JA』の金融課に行く予定をしていました。私は、夫の話の用事と義母の介護費用支払い目的の作業を行いました。 その後、街のほうへ出かけるので、12時頃は、お菓子だけを食べ、昼食は店舗での外食を予定しました。
私は、温泉入浴しました。帰宅後。夫と食事と談話を行いました。その後、いつもより早い時刻に、私は多くの眠たさを感じました。日記書きは今日3月1日に延期しました。
今日。私が昨日の出来事の備忘録としてつぶやきを行いました投稿を、ここに追加させて頂きます。
今の現住所地に住み始めて、最初に、同じ日本国なのにとても異様にかんじましたものについて、今回記事では「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」という文章にさせて頂きます。それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動について。今の私は、他の人がお読みになられました場合に分かり易く正確に伝えられる文章を編集し表示できる自信はありませんが。今回、主体的言語リハビリテーションの目的を兼ね、文章をつづらせて頂きます:
今から約9年昔から約7年昔の期間に、「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」は、一年間365日の内の300日の毎日必ず誰かが一回はおこなっていらっしゃったと、今の私は思い出しています。 今から約7年昔から今迄の期間では、「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」を、私個人が認識する頻度は多少、減ったように思い出しています。
それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動は 今迄に、私はずっと同じ『性質的特徴』『傾向』『動向』を見聞してきましたと言えますしそうとしか言いようが無いように実感しました。
「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」の『特徴』と考えられるものを、私は、現住所地の私以外で在り、尚且つ 私の同居家族以外の人々のなかで『過半数』『少数』な何人かの人々の言動を、私が直接、見聞しました時と場合に解りやすく認識します。 今から約7年昔迄の私の感想としては、「私の今迄の人生では全く見聞した事が無かった、創価学会会員が少ない場所で流行っている宗教や思想文明に因る特性かな」 「決まりのように規則的な思想を重要視している人同士の長期間の付き合いによって、無意識的にその時々の聖教新聞紙面の記事内容を嫌っているように感じられる言動をしぜんと選んで行動を起こすのかな」という感じでした。
言い換えますと。私は、「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」を認識しました時に、良いとも悪いともなんとも感じない些細な出来事として、私は深く考えたり不快に感じたりはほとんど有りませんでした。
現住所地以外の日本国の(北海道・東京・茨城県・名古屋・新潟などの東日本を含む)場所での、私と私以外の人との交流時に、「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」等と見受けました、私以外の誰かの言動を探すように思い出しても、今の私は一回も記憶から思い出せません。
今から約6年昔。私の義父の葬儀が終わり、畑での野菜収穫が始まる時期に、ひと安心できました私は、その時点迄の私が経験していました色々、さまざまな事実経過や、私と私以外の人々との交流時間に発見できていなかったものを、凄まじい勢いで濁っていた視野が明るく輝き鮮明に見えるように変わるという感じの変化を伴い気づき始めました。 現住所地での私以外の人々のその時々の言動と、「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」が、バラバラだったパズルの1つ1つのように物事を表し始めたという感じでした。それらは、私がはっけんできていなかった『物事と人がおこなった言動のいくつかの基底箇所』を、私に知らせている感じでした。
今回の日記は、私の記憶に有る「それらの私が知らない価値観が浸透している個性の人だからおこなっていそうな言動」の説明文章としては不充分かも知れませんが。2025年2月28日午後13時50分頃に、村役場の近くを私が運転している車で移動している時に。私の車の前を走っていました、(スズキ スペーシアかそれに似た形の)黒色軽自動車が少しずつ減速していて、私の運転している軽自動車との車間距離が少なくなっていた場所で、急ブレーキと急な右折をなさいました運転の人は、偶然の行動だったのかも知れませんし、この下の段落に添えます池田大作博士の当日投稿を読んだ後に、私に迷惑を感じさせる運転を意図しておこなったのかも知れません。
しかし。今回日記に、私個人がはっきりと書き残したいものは、今回のその一般的に『危険を及ぼす迷惑な行動』の運転と、同時期の聖教新聞紙面記事内容と池田大作博士の著作物にある言葉との、誰かが意図して関連づけらたものと言える感の経験。そういう経験を、私個人は、今迄に(少なく数えるように努めて。(350÷2)175×9年間) 「1,575回経験しました。」言えます。
なぜ、この実際の私の経験を含み「不気味」に感じた経験や思考について、今迄の私は、誰にも伝えない意識の活用を持続したのか。この点を今、私が考えますに。私は、そういう経験や思考についてよりも多く、日本国住人間で『創価学会』『聖教新聞社』についての誤解・根拠のない嫌悪が多すぎる現状を変えたいと望んでいるからです。及び。『創価学会』『聖教新聞社』に、日本国住人の誰かから嫌悪されて当然な何かの当事者のどなた様かが、その叱責や否定的意思などを 『創価学会』或いは『聖教新聞社』へ直接、お伝えになられました場合は、その時々に『創価学会』或いは『聖教新聞社』の担当の方々は、それについて議論を行い、行われるべき対応をおこなうものだと、私は考えます。