
『THE DEAD』刊行に寄せて (平成三〇年十月吉日 東京キララ社)
ヒトの死体を被写体として創作活動を始めてから四半世紀になる。
「メメント・モリ(死を想え)」
意外に思われるかもしれないが、私はこの言葉を長らく忌避してきた。この古典的モチーフが、一芸術家として私が目指す表現の可能性を狭め、貧しくしてしまう危険があるからだ。
死体写真は単なるポートレートでもなければスティルライフでもない。その存在、現象は圧倒的だが、それでいて厳然と日常であり自然である。私はそんな根源的な、究極の被写体と格闘するという命懸けの挑戦にやりがいと誇りをもって取り組んできた。
また死者を取り巻く生者の人間的な営みにも刮目せざるを得なかった。死という現象には、たとえそれを唯物的に見つめるとしても、多角的で深遠で神秘的な世界が広がっている。
この四半世紀、私は世界中の死の現場を巡ってきた。タイの交通戦争に始まり、冷戦後の混乱にあるロシアを視認し、二〇世紀末から果てしなく続く中南米の麻薬戦争を追う中で、9.11を迎えてパレスチナの対テロ戦争を越え、3.11直後の東北の罹災地を取材してからここ最近は、特に我が祖国を見つめなおす旅路にある。その必要があった。
時代は世界史的分水嶺にある。我が国はその渦中で存亡の危機に瀕している。
世界が混迷を極める中で、我々は「過剰」な情報化という文明の恩恵に与りながら、あたかも来るべき破局的恐怖から目を背け、耳を塞ぐかのように、掛け替えのない表現の自由をやすやすと手放そうとしている。見たいものだけを見、見たくないものをこの世から葬り去ることに躊躇がない。しかも驚くのは、それを唱導している元凶がことあるごとに表現の自由を口にする表現者自身なのだ。負の情報に煽られ、自由と独立の痛みを引き受ける義務を恥ずかしげもなく放棄し、社会の弱体化、文明の退化へ導いている自覚もない。表現の自由の美名の下の堂々たる言論封殺という詭弁に自己矛盾を感じない反知性、愚鈍さ。かくして反自由主義的ポピュリズムが蔓延し、性表現や残酷表現への差別意識が良識として暴走することになった。
我が国は過激な描写や極端な言論に耐えられない実に脆弱な社会になってしまった。
差別は衆生の不幸な業であるが、偏見は大罪である。表現の自由とは、偏見という人類の進歩を阻む病巣と戦う唯一の武器だ。知性とは決してイデオロギーの追求ではないことを明記する。
我々は閉ざされた言語空間にある。表現規制の嵐が巻き起こっている。私の表現も残酷描写として苛烈な批判にさらされている。
今や私は敢えて「メメント・モリ」を叫ばねばならぬ時代が来たと感じている。それは死生観や哲学の観点、文芸的見地からというより、社会的必要性からである。
現実認識を失った国民に覚醒を促したい。恐怖に向き合ってもらいたい。越境の彼方の神秘、美に触れてもらいたい。傲慢なのだが、そう願っているのだ。作品の本意は別としても。
九〇年代、私が死体を追いかけ始めたころはある種の希望があった。グロテスク表現が脚光を浴び、ヘアヌードが解禁され、あたかも性表現の解放は目前に迫っているかに見えた。
ところが四半世紀を過ぎた現在、世界は地上におけるゴア表現の駆逐の最終段階にあり、私が一九九九年に監督した残酷ドキュメンタリー映画『死化粧師オロスコ』も二〇一五年にドイツで発禁処分を受けた。我が国ではポルノグラフィーにいまだケシが頑固にこびりついている。お上は国民の下の世話をする利権にしがみつき、表現者自身もそれに異議を唱えない。むしろ隠すべきは隠す方がよい、隠し方がかっこよければよいと言う者もいる。私にはこの物言いが信じられない。私は自分の表現を露悪趣味だと思っていないが、私にも隠蔽の美ぐらい理解できる。表現の自由度に対する問題意識のなさを憎悪するのだ。
世界はきれいごとがのさばる狭小な社会になりつつある。俗論に対して呆れるほどなす術がない。あらゆるマイノリティは消費され、焦土化される。 世界は広い。残酷で容赦ない。それでいて世界は美しい。しかし鈍感にして貪欲な雲上人は、そんな世界を狭く平坦に、左翼的に拗れさせ、いかにも醜く変貌させつつある。
分裂した集合的無意識は離散的な「生きづらさ」の解消という美名の裏で、自由を失ってきた。我々は子供の遊び場を失い、アウトローの受け皿を失い、悪徳の趣味を失い、表現の自由を失い、そして批判の自由も失いつつある。今は不自由な好き勝手を撒き散らしているが、そのうち表現の意欲すら失うだろう。世界を覆う異常性の淵源を探し当てぬままに、隣人を傷付け、孤独を深めて、弱々しい個として自殺への道を邁進していくのだ。
このようなばかげたことをばかげたことと知る術とは何か。私が思うにそれは神話だ。そして神話を紡ぐ役目を負う者こそが芸術家だ。
私はこれまで数々の血生臭い無法地帯、紛争地域を渡り歩いてきて、この世には善も悪もなく、真実さえもなくて、事実も捻じ曲げられて、ほとんどが嘘だという考えを深めた。今までそれらしいものを見たことがないからだ。私はジャーナリストではないので、ことの真実や善悪の問題にはひょっとすると無頓着なのかもしれない。
また、戦場においてインテリジェンス面を含めて非武装のジャーナリストはしょせんプロパガンダに加担させられるだけの虚しい存在なのだと痛感している。
私が世界のエッジで出会った人々は話の通じない者ばかりだった。世界は残酷だ。それでも世界はやはり美しい。私はただひたすら美に殉じたいと願うばかりだ。
表現の自由は神聖な権利である。私は芸術に不可能はないと思っている。芸術のためなら基本的に何をやってもいいと思っている。表現というものはどんなに反社会的であろうと、どんなに猥褻であろうと、絶対に規制を受けてはならない。これは私の信念であり祈りだ。
私は今こそ世界の「良識」に問いたい。困難を押しても本書を発刊した所以だ。
平成三〇年十月吉日
釣崎清隆