釣崎清隆 (TSURISAKI Kiyotaka)

Photographer, film director and writer spec…

釣崎清隆 (TSURISAKI Kiyotaka)

Photographer, film director and writer specializing in death 死体写真家・映画監督・文筆家

最近の記事

『THE LIVING』刊行に寄せて(令和四年十月吉日 東京キララ社)

 私、釣崎清隆は死体写真家である。  約三十年にわたって世界の修羅場を渡り歩き、人間の死を見つめてきた。  そして平成三〇年、集大成としての死体写真集『THE DEAD』を上梓した。  私、釣崎清隆は死体写真家である。死体しか撮らない、というドグマを己に課してきた。  しかしながらこの三十年の間、全く死体以外のものを撮らなかったのかというと嘘になる。死体写真家として存続するために撮らざるを得なかった「裏」の写真があり、要するに「ジャーナリスト」の真似事をせざるを得なかったのだ

    • 死者の書(2011年4月1日 三才ブックス)

      目次 一 黄泉の国と交信すべきか   死者に鞭打つということ 無為に浮かれた世紀末と暗澹たる第三千年紀の幕開け 異教徒の観想   二 パレスチナ/暴力の異相   怒りの荒野 パレスチナ 二〇〇一年 自爆攻撃の実相 邂逅/アル・アクサ殉教者旅団 ジェニン 二〇〇四年   三 暴力の相貌   暴力の諸相 裸者と死者の十字路 人間狩り/野生という禁忌(タブー) 死/無神論者の禁忌(タブー) 神なき時代の野良犬   四 インド/手垢にまみれた異境   アートの名の下の消せぬ大罪 バ

      ¥500
      • 『DEATH』 Beyond Death(2011 Creation Books)

         僕は死の無謬性を唱導して歩く宗教請負人でも哲学者でもない。かといって不道徳や悪趣味の商人でも殺し屋のたぐいでもない。  僕は例えばネットメディアで敵の首を誇らしげに掲げるイスラムやメキシコのテロリストに似ているかもしれない。表現者だ。  僕は表現の自由にかけては原理主義者である。僕は芸術に不可能はないと信じている。芸術のためなら何をしてもいいと思っている。表現というものはどんなに反社会的であろうと、たとえヒトを傷付けようとも、絶対に規制を受けてはならない。これは僕の信念であ

        • 『danse macabre to the HARDCORE WORKS』 あとがき(1996年1月 NGP)

           1995年6月、僕はモスクワにいた。モスクワは連日30度を超す猛暑、僕はスチームはエアコンもファンもない、しかし値段だけは一流のホテルで警察の取材許可が下りるのを待っていた。来る日も来る日も電話を待った。思えばタイもコロンビアもうまくいきすぎたのだ。行き当たりばったりで飛び込んで、いい友人、いいドラッグ、いい死体に巡り合うことができた。しかし、ロシアで行き当たりばったりは通用しなかった。取材許可が出るまで恐ろしく時間がかかる。食事は恐ろしく高く、しかもまずい。僕はいつしかウ

        『THE LIVING』刊行に寄せて(令和四年十月吉日 東京キララ社)

          『REQUIEM DE LA RUE MORGUE』Preface(平成十八年吉日 DWW)

          モルグ街の帝王、フロイラン・オロスコ・ドゥアルテに捧ぐ    愛と暴力の天地、コロンビアに魅せられ、世界でもっとも治安が悪いといわれるその国の中でも特に危険なサンタフェデボゴタのエル・カルトゥーチョとよばれる界隈に導かれ、法医学鑑定所を中心に葬儀屋が軒を連ねる“モルグ街”で、僕は老エンバーマー、オロスコと出会った。僕はコロンビアの血まみれの現代史を生き残り、暴力に斃れた人々を一心不乱に弔ってきたこの男のたたずまいに強い印象をうけ、一九九五年から一九九八年にかけて三年にもおよぶ

          『REQUIEM DE LA RUE MORGUE』Preface(平成十八年吉日 DWW)

          『REVELATIONS』 Preface(平成十八年吉日 DWW)

           使い古された言葉がある。“メメント・モリ”。いったい死を思いながら生きることに何の意味があるだろうか? 唯一絶対の真実である死を意識して生きることで魂がいくばくか救われるのだろうか? いったい、アステカ人のような潔さをうす汚い現代に生きるどこの誰がもっているというのか?  イスラム原理主義を信奉する自爆テロ犯でさえ死後かしずかれる七十二人の処女妻の俗っぽい夢を見る。死体現場には、死に物狂いでもがいた生への執着の跡がありありと刻印されている。  死という“絶対”には不確かで茫

          『REVELATIONS』 Preface(平成十八年吉日 DWW)

          『THE DEAD』刊行に寄せて (平成三〇年十月吉日 東京キララ社)

           ヒトの死体を被写体として創作活動を始めてから四半世紀になる。  「メメント・モリ(死を想え)」  意外に思われるかもしれないが、私はこの言葉を長らく忌避してきた。この古典的モチーフが、一芸術家として私が目指す表現の可能性を狭め、貧しくしてしまう危険があるからだ。  死体写真は単なるポートレートでもなければスティルライフでもない。その存在、現象は圧倒的だが、それでいて厳然と日常であり自然である。私はそんな根源的な、究極の被写体と格闘するという命懸けの挑戦にやりがいと誇りをもっ

          『THE DEAD』刊行に寄せて (平成三〇年十月吉日 東京キララ社)

          鬼畜系の弁明 (2019.04.02.16:00 TOCANA)

           90年代サブカルチャーに対する再評価の機運の中、「鬼畜系」と呼ばれる分野を否定的にとらえる動きが活発化している。あれから20年の時を経た今、鬼畜系を歴史的な汚点として確定し、一刀両断に裁こうとしている。  私は死体写真家として、鬼畜系を担った一員として、反論の声を上げと思う。 90年代はいい時代だった。自由な時代だった。誰が何と言おうと。  当時の私は塹壕の泥中を這いずりまわるような心持ちであったが、今あの時代を振り返ってみると、目もくらむ光芒に映る。忌々しいポリティカル・

          鬼畜系の弁明 (2019.04.02.16:00 TOCANA)