ゴースト
ごうごう。ごうごう。水の中みたいだ。ごうごう。集中する。ごうごう。きみに意識を集中する。ごう。きみにチャンネルを合わせる。
水の中みたいな、耳鳴りみたいな音が消える。
きみはまだ寝ている。ベッドで、右向きに横になっている。きみの右隣には一人分のスペースがある。そこには誰も居ない。
もうすぐ朝の八時。きみが起きる時間だ。ベッドの縁に腰を掛ける。マットレスが沈むのとほぼ同時に目覚ましが鳴る。きみは左腕をヘッドボードに伸ばして止める。その手の伸びる先に、一分の狂いもない。
時計を止めて、たっぷり一分間。きみはようやく身を起こす。
「おはよう」
とぼくは言う。でもきみは答えない。それはいつものこと。
ベッドサイドに脚を下ろして、ぼくの隣に座るきみ。のぞき込んだその顔はとても空ろで、その視線はなにも捉えていない。
そのまますっと立ち上がり、ぽてぽてと歩いて部屋を出る。ぼくもその背を追う。
きみが顔を洗って歯を磨いている間に、ぼくは家中のカーテンを開けて回る。外は快晴だ。光が差し込んで、ほんのすこし舞ったほこりがキラキラと反射する。
リビングに入ってきたきみは、カーテンが開いていることにも気付かない。ふらふらと導かれるようにキッチンへ。冷蔵庫を開けて、卵をふたつ取り出す。
じゅうじゅうと音をさせて目玉焼きを焼くきみを横から眺めながら、まるで生きているみたいだ、と思う。
染めていない、黒に近い焦げ茶の髪は、顔を洗ったときに濡れたんだろう、ひと筋が頬に張り付いているし、その頬には白いうぶ毛が生えている。フライパンを握る手の親指はすこしささくれていて、無理に取ろうとしてやめたのか、赤くなっていた。
きみはまるで生きているみたい。でも、ほんとうはもう生きてはいない。
きみは、ただひたすらに繰り返している。ぼくと一緒に生きていた日々の記憶を。
朝は毎日八時に起きて、顔を洗い歯を磨いて、卵をふたつ焼く。両面よく焼く。ぼくがターンオーバーが好きだから。最初のうち、きみはサニーサイドアップが好きって言ってたのにね。
それを近所のスーパーのプライベートブランド、一袋九十八円の食パンと一緒に食べて、食器を片して、八時五十分。きみは仕事にいく。
ジャケットを着て、靴を履いて、玄関のドアを開けて、一歩踏み出した瞬間にきみは消える。誰もいない玄関で静かにドアが閉まるのを、ぼくは見ている。
そこから九時間ほど、きみはいなくなる。ぼくは家でひとり、きみとの思い出に浸る。リビングのソファに座って、ここでした他愛のない会話を思い返したり、アルバムを見返したり。一緒に見に行った映画のパンフレットを引っ張り出して、そう言えばこの映画を見た後、感想の違いで喧嘩にまでなったなあ、と思い出し苦笑いをしたり。あとは、ちょっと部屋の掃除なんかをしたりもする。
午後六時半をすこし過ぎたころ、きみが再び現れる。玄関のドアがひとりでに開いたら、たたきにきみが立っている。手にはスーパーの袋。一袋九十八円の食パンが覗いている。
「おかえり」
とぼくは言う。でもきみは答えない。それもいつものこと。
正面に立つぼくのからだをすり抜けて、きみはキッチンに向かう。それもまたいつものことではあるけれど、きみにはもう触れられないことを思い知らされて、毎回ちょっぴりだけ、胸がちくりとするんだよ。
遅れてキッチンののれんをくぐると、小さく丸まったきみの背中が目に入る。買ってきたものを冷蔵庫に入れている。箱入りのアイスキャンディー。それも最初はぼくが買ってきたんだよ。きみとぼくは、長く一緒にいる間に考えも好みもまるで脳みそが溶け合うように混ざりあって、きみはほとんどぼくだったし、ぼくはほとんどきみだったよね。それでも互いに頑固だから譲れないことはあって、あの映画のときみたいな喧嘩をたまにしてさ。
それからきみは適当な夕食を作って、よく味わいもせずに食べ、無気力に皿を洗う。ぼくはずっとそばにいるけど、一度も目は合わない。
そのあとは自分の部屋に戻って、ただただぼんやりとして過ごす。ベッドに腰かけてずっと壁を見つめるきみは空っぽだ。どんなに生きているみたいに見えても、きみの中身はなにもないのだとわかる。ときおり、同じ姿勢のままサイドテーブルに目をやっては、泣く。きみとぼくの写真。はじめて一緒に旅行にいったときの写真。
ああ、そんなものを見て泣かないで。ぼくはきみのすぐ隣にいるのに。その背をさすってやれないことがもどかしい。手を伸ばしても、すり抜けてしまうから。
そうしてまた一日が終わる。
反復。
ベッド。右向きのきみ。八時。手を伸ばす。止める。カーテン。差し込む光。濡れた一房の髪。じゅうじゅう。卵ふたつ。一袋九十八円の食パン。ジャケット。玄関。きみは消える。
ガチャリ。きみが現れる。スーパーの袋。冷蔵庫。アイス。夕飯。皿洗い。きみの部屋。壁。壁。壁。を見つめる。写真。頬を伝う涙。
反復。
同じことの繰り返し。終わりのない反復。
死んだら、ひとは生前の行動を繰り返すんだって。そういえばそんな映画もあったね。何度も何度も、自分が死んでいると気付くまで、永遠に。
まるで今のきみにそっくりだ。成仏したほうがいいのだろうか? きみをこの苦しみから解き放ってやるべき? でも、ぼくにそんなことはできやしない。ぼくは霊能者なんかじゃないからね。
それに、本音を言うよ。正直、きみがこうなっていること、ぼくはまんざらじゃないんだ。
ぼくとの思い出に縛られて、ぼくとの思い出をなぞるだけの毎日を繰り返すきみを、ぼくは心の底から愛おしいと思っている。
それだけ、きみはぼくを愛しているということだもの。
もしきみが、ぼくのことを忘れてしまったら、なんて、考えたくもない。
午後六時半、すこし過ぎ。またきみが現れる。
「おかえり」
とぼくは言う。でもきみは答えない。それはいつものこと。
きみのからだがぼくをすり抜ける。
簡素な夕飯を食べるきみを、正面に座って見つめている。味なんかしないかのように、ただ機械的に箸を口に運ぶ。皿の上が空になって、きみは立ち上がる。
はずなのに。
きみは箸を置いて、そのままじっとうつむいてた。
丸く小さく落ちた肩が、わずかにふるえていることに気がついた。
うう、ひぐっ、と水っぽい声がする。
ぼくは思わず立ち上がり、きみの元へ駆け寄る。ぽたぽたとジーンズの膝に水の跡を作って、きみはぐずぐずに泣いていた。
どうしてそんなに泣くの。きみの泣き顔は毎日見てはいるけれど、こんなに取り乱すことはなかったのに。
涙を拭ってあげたいのに、ぼくの指はきみの頬に沈み込んでしまう。
「なんで死んじゃったの」
しゃくり上げるその合間に、きみがそんな言葉を漏らした。
それでふと気付く。カレンダーを見る。
そうか、今日はぼくの命日か。
「ねえ、なんで死んじゃったの。なんで置いてくの。わたし、ひとりぼっちになっちゃった。なんで。ずっと一緒に居てくれるって言ったのに」
泣き声は激しくなるのに、きみは膝の一点を見つめて動かない。ふるえだけが大きくなる。ももの上に置いた手を強く握っている。そんなに握ったらてのひらに爪が刺さっちゃうよ。
まる一年、きみはぼくが居なくなったことを認めたくないかのように、ぼくと一緒に過ごした日々を繰り返した。きみは今を生きることを拒否して、過去のなかで過ごそうとしたんだ。それでも、ぼくがいたはずの空白だけは埋まらないから、それで毎日泣き暮らしたんだもんね。
きみを楽にさせてやりたいって気持ちはあるんだよ。ぼくのことは忘れて、ほかのひとと幸せになってほしい――なんて、思えたら良かったけど。
ごめんね、そんなことはたとえ生まれ変わっても言えっこないんだ。
だから、ぼくはもはや悪霊なのかもしれないね。きみと過ごしたこの家に取り憑いた、たちの悪いゴーストだ。
ぼくが成仏したら、きみは楽になるのかな? どうだろう、ぼくはただここにいるだけで、きみはぼくに気づいちゃいない。カーテンを開けたり、部屋の掃除をしていることにすら気づかない。おばけのぼくがいようといまいと、きみは生きていたぼくを想って、その喪失を悲しみ続ける。
ごう。遠い耳鳴りのような音がした。ごう。まるで水の中のような。
ずっときみにチャンネルを合わせていられるわけじゃないんだ。ぼくときみは存在する次元が違うから。きみのことを見ているのにも体力がいる。死んでるのに変な言い方だけどね。
ごうごう。音が近くなる。なんで、なんでよう、と泣くきみの声にノイズが混じる。ごうごう。ああ、こんな日に、せめて泣き止むまで一緒にいてあげたかった。
そのうちぼくは、このごうごう言う水の音みたいなものに呑み込まれて、そのままなくなってしまうのかもしれないな。
ごうごう。そのほうがいいのかもしれない。ごうごう。もし何年も経って、きみがぼくのことを忘れてしまったら。ごうごう。ぼくはそんなきみを見続けていられるだろうか。ごうごう。そんなことがあればぼくは。ごうごう。本当の怨霊になってしまうかもしれないね。
わんわんというきみの泣き声はもうほとんど聞こえない。ごうごう。集中が切れる。ごうごう。まるで水の中にいるみたいだ。ごうごう。そしてぼくは呑まれていく。ごうごう。ごうごう。