【朗読】運も良かった
はじめに
学生の頃、マイケル・サンデル教授の行っていたハーバード白熱教室という動画を見つけて、以降その講義の様子に胸を熱くした事は記憶に新しい。
正義とは何か。トロッコ問題。トマス・ホッブズのリヴァイアサンの話など、純粋に興味の唆られる内容が多いだけでなく、世界中から超優秀な学生が集まり、己の考えや体験から教授に肉薄していくその講義室の様子に憧れを抱いた。
以降、マイケル・サンデル氏の書籍を追い続けている。社会における事実や根差した問題を元に投げかけられる鋭い問いは、いつも自分に新たな問題意識を与えてくれるからだ。理路整然とした文章を読むのは脳のごちそうだ。
その中でも「実力も運のうち 能力主義は正義か?」この問いに対して考えている事がある。実体験を元に整理してみたい。
戦友
以前Podcastにてこの件にまつわる話をした。
マイケル・サンデル氏の書籍を読んだ事を明らかにした上で、私の意見をまとめると、「自分達の事を相対化できる指針となる存在に、人生で出会えている人は幸運である可能性が高い」という論理展開だ。
そしてこれは私と新卒同期の友人もとい、この世界を一緒にまともに生きていく為のかけがえのない戦友との共通認識でもある。
私達は新卒1年目にインターンから一緒に仕事を始めた。その時に出会った職場の人間達の能力の高さに面くらい、以降その人達を意識しながら今日まで仕事をしてきた。
今でも時折、戦友と二人で酒を酌み交わし、当時の厳しく大変だった思い出がとても幸運な事だったと改めて確認する時間がある。
仕事に求めるモラル、能力の基準値をかなり高く設定できた。上司が齢30で数十人の部下を抱え、年収1,000万円を超える仕事ぶりをあのプレッシャーの中で発揮できていたこと、今でも意味がわからない。
20代後半に差し掛かり、双方マネージャーとなった今でも、あの人達のように仕事が出来ているだろうか?とお互い自問自答する日々だ。キャリアパスが一見順調に進んでいるように見えて、根底には恐怖を感じている。
怪物
そんな強者揃いの職場だったが、同年代にとてつもない「怪物」との出会いがあった。彼とは一定の距離がないと精神が侵食されていく感覚があった。
断じて他の人の能力が低いわけではない、彼自身飛び抜けて能力が高かった。彼はその事実を無視しながらどんどん先に進む。
認めていない人間への興味の無さも、火を見るより明らかでこちらが危機感を覚える程に出してしまう。手加減や遠慮する必要のない人生を送ってきたのだろう。
自分を比べる必要は無いのだが、仕事の仕方や脳の中身に興味がある。可能な限り学び取れる事は会話の中から吸収していくと、一つの特徴があるように思えた。
それは自分の能力を高める為なら、決して「遠慮」しない事である。
裏打ちされた自信がある、と言い換えてもいいかもしれない。
無理難題を二つ返事で引き受け、納期よりも早く片付けてしまう。
「人や環境」を理由にもしていなかった。恐らく生活の中で裂けるリソースの殆どをその対策の時間に充てているようだった。休日にも喜んで仕事をするし、一度も苦しそうな様子を見なかった。見せなかったのが正しいか。
最短経路を見つけ出し、最大の努力を常に惜しまない。休日は1日で十分だと言っていた。「ロボットや昆虫」のようで周囲からは畏怖の対象だった。
正直興奮した。同期にこんな凄い人間がいたんだ。同世代でもここまで能力を拡張できるんだと胸が高鳴った。
この年齢でここまで能力を練磨してきた事実に、彼への興味を隠すのは難しかった。
何の巡り合わせかは知らないが、彼と張り合う事だけは絶対に辞めてはいけないと直感が叫んでいる。
一緒にいた学生時代の友人とは一体どんな景色を見てきたのだろう。
いつから彼はこのように動いているのだろうか。
以来、彼は今日まで私のベンチマークとなった。
彼がいる限り、私は決して驕り高ぶることは出来ない。
そして現在へ
時系列は今に戻る。
彼の存在と新卒の上司の存在が、私に警鐘を鳴らし続けている。
彼らにとってベンチマークとなる存在がいるのかは一つ疑問だ。
それはどんな人達なのだろうとふと考える。
大学院の同期?教授?あるいは親?兄弟?もしくは交際相手?
いつか話を聞いてみたいものだ。
私は彼らに現状では満足出来ない頭にされてしまった。
知の水準にはまだまだ先があるとリアルに叩き込まれたからだ。
ニュートンやアインシュタインといった人類を何段階も進めた議論の余地のない天才の伝記を読んだわけではない、目の前で偶発的に現れた同世代の人間に、想定の限界値を大幅に更新されてしまった。頭脳の可能性を半強制的に拡張された。
それは絵空事から現実に立ち戻され、否応がなく自分の能力値を相対化されてしまったことに他ならない。世間知らずだったという事に気づく瞬間だ。
挫折するのは簡単だが、ここに意味を見出すならば、可能な限り肉薄する事で新たに見える景色があるかもしれない、と仮定することだ。
時間が経っても、その相対化された位置の認識は拭い去れない。
認識していない領域には、賢者が数え切れない程存在する可能性を示唆された上、努力を怠ればその怪物は更に追いつけない程の距離を取るだろう。
この先どんなに自分が周囲から評価されたとしても、「彼であればもっと上手くやっただろう」という確信が、私に焦燥を齎す。彼が私をみた時、何と声を掛けるだろうか。想像の中にいる彼の温度感に背筋が冷える。
一生片想いでいいし、もう2度と会わないかもしれないが、私は彼を忘れないだろう。
終わりに
それから5年近く経つが、彼より優秀な人材に年齢関係なく会った事がない。時間が経って基準値が高く設定されていた事に少しずつ気づいていく。
業界のアベレージでは無かった。大人の中でも優れすぎていて外れ値だった。麒麟児の類と相対していたのだ。私の世界が古く狭くなっている反証かもしれないが。
早い段階で自分の指針となる人間と現実で出会えた者は、間違いなく幸運であるし、その環境に身を置く事で今日の実力がついた可能性は高い。
能力主義は物理の世界でいうカオスの要素を加味せず、決定論的な世界観の中で、論理立てて成功要因を紐解こうとすると、陥ると考えている。
一人の人間が幼少期から働きかけて動かせる要素はかなり少ない。大多数の怪物達は恵まれた環境で生活できた幸運に胡座を描く事なく、目標をモノにする為の努力を惜しまなかった、と解釈している。どちらが欠けても今日の成功はなかったと仮定したい。
彼との会話の中で、30代の優秀な上司を話題に挙げた事がある。
「あの人達と同い年の時に、俺はあんな風に仕事できるんかね」
「同い年の時はお前の方が仕事できてるよ」
仏頂面でそう言い残し、彼は自席に戻って行った。
私に対する彼の預言めいた見立てをそう簡単に裏切る訳にはいかないのだ。
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