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【朗読】洗濯機が壊れた


事の発端


先日、使っていた洗濯機が寿命を迎えた。

この洗濯機は父方の祖母が介護施設に入る際に手放し、実家に置きっぱなしになっていた古いドラム式だ。一人暮らしの時にわざわざ新しいものを買うのも馬鹿らしくて、約1年前に引き取った。

夜中はガコンガコンと乾燥をかけていたのに、朝起きると静物のように沈黙している。

メーカーに問い合わせてみたが、2010年製造のモデルで壊れた部品の在庫がどこにも無く、新しい洗濯機を購入して欲しいとのこと。

調べると値段はピンキリ。生活力の低い自分は洗濯と乾燥を同時に処理できるドラム式一択で検討していたので、15万円程の中々手痛い出費になった。
背に腹はかえられぬ。文字通り自腹を切って利便性を選んだ。

乾燥機能が途中で止まったり、水漏れが頻繁に発生していた時点で早かれ遅かれこうなる気はしていたのだが、実際壊れてしまうと一気に生活にブレーキがかかる。

そもそも洋服のストックが少ない私が洗濯を怠ると、
あっという間に着るものがなくなってしまった。

面倒臭かったがやむを得ない。
新しい洗濯機が届くその日まで、コインランドリーに通う夜が続く。

虫の知らせ

生活のゴタゴタが少し落ち着いた休日の昼に、突然電話がかかって来た。
スマホの画面をみると祖母の名前が表示されているではないか。

まずはじめに私の携帯電話番号を知っている事に驚き、
次いで静かに悪寒が走った。

祖母からの電話など、この10年間1度もなかった。
祖父は私が中学生の時に亡くなったので、それ以降、基本的に身の回りの事は私の父親が連絡・対応窓口であり、次いで叔父や叔母に連絡が行く手筈だ。

一人暮らしで東京にいる私は、緊急の連絡があってもすぐには施設に駆けつけられない。車を飛ばしても到着には数時間のラグが生まれる。

現状、私が解決できる事など何もないという周知の大前提があるのに携帯は鳴り止まない。つまり最低でも3人以上に連絡した上での電話なのだ。

90歳を超えた祖母は既に認知症の症状が強く出ている他、施設に入ってから粗食になり、驚くほど痩せて体力も落ちていた。

20歳以上離れている父や叔父と私を平気で間違えるなど、誰が誰なのかもどんどん曖昧になって来ている。

祖母の洗濯機が壊れたその矢先に、張本人からの知らせが入る。
そう言った類の事を連想するなという方が無理があった。

祖母という人間

私の祖母は傍若無人そのものである。

人に余計な一言や、傷つけるだけの文句を言い、
感謝の言葉を絶対に口にしない。
そして自分がやった事、言った事をすぐに忘れる。

こんなに都合良い人間は見た事がない。
今後もそうお目にかかれないとさえ思う。

今の介護施設に入る前に何度も施設を転々とした。流れはシンプルだ。祖母が直ぐに他の居住者と自ら喧嘩をふっかけ、いざこざを起こしておきながら被害者ぶり、数々の遺恨を残した上で「この施設から出ていく」と啖呵を切る。

その度に施設に父が出向き、居住者や勤務しているスタッフの方に頭を下げるも、そんな努力もつゆ知らず、次の日には別の人間とトラブルを起こす。

結果謝りもしないし、過ちを認めもしないので水掛け論になり、半ば追い出される形で遊牧民のように施設を渡り歩いていた。

今の時代、簡単に次の施設は決まらない。
二世帯住宅の生活から解放された父と母も、変わらず時間と労力を奪われ、すり減る一方だった。

施設に入る前は、数年間実家で一緒に住んでいた。
もはや祖母と孫という無害な関係性で多めに見ても看過できない程のレベルまで来ていたように思う。

亡くなった祖父も手に負えなかったようで、一時期婚姻状態から除籍され、仮面夫婦の時間があった事が書類の整理中に明らかになった。

気丈な父もその時ばかりは愕然としていた。
忍耐強く辛抱してきた母親が決壊し、我慢の限界を迎えた事を皮切りに施設に送還する事になった手前、私は祖母をもう見放していた。

あまりにも遺恨が多すぎるので割愛するが、人を壊せる人間だった。

虫の息

そんな祖母からの電話だ。
無視も頭を過ったが、嫌な予感に従って応じた。

「もしもし、急にどうした?」
「久しぶりだねぇ、元気かい?」

祖母が出た。施設の人ではなかった。
私が記憶しているよりもずっと、祖母の声は弱々しく掠れていた。
水分の無い、枯れ木のような祖母の姿が脳裏をよぎる。

「元気よ。番号知ってたんだね。びっくりした。どこか具合悪いの?」
「いやぁ、そういうわけじゃないんだけど」
「何かあったらまず父さんに電話して。
 俺今東京にいて直ぐにそっちには行けないから、わかった?」




暫く沈黙が続いた。




 「会いたいねぇ」

祖母の乾燥した体の奥から、水分が競り上がってくるのが電話越しに伝わる。軽く震えながら声を絞り出しているようだ。

その声がまた、私の心を酷く冷たいものにした。

「そうね、タイミングが合えば。」
「わたしねぇ、もう長く無い気がするのよ、わかるの」
「そんなこと言うもんじゃないよ。体調が悪いって訳じゃ無いのね。良かったよ。」

「忙しいかもしれないけど、会いに来て欲しいのよ」
「うん、考えとく。この件、父さんにも伝えておくよ。」

「貴方はなんでもそつなくこなすから、きっと上手くやっていけるわ」
「あはは、珍しいね褒めるなんて。この電話が最後みたいじゃない。」

それから祖母は数回「会いたい」と言った後、
呆気なく「じゃあね」と言って電話を切った。

巣食う悪心

もうすぐ家に新しい洗濯機が届く。
父にこの件を直ぐに連絡したが、祖母は私だけに直電を入れたらしく、父はこの件を全く認識していなかった。

こんな事があっても、私は祖母の施設に足を運ぼうとは素直に思えない。
つくづく冷たい人間だ。世間的に見れば、そうなってしまうのも腹が立つ。

ただ、これで祖母が近日の内に息を引き取ろうものなら、
私は言い表せないほどの悪心に襲われるのだ。
その事は嫌と言うほどわかっている。

最後までこの人に振り回される事が確定していることに腹が立つ。
その変えようのない事実が、まるで親しい友との約束を破った時のように居座り、私の心にじっとりとした重苦しい影を落としていく。

もう考えたくも無いのに、家の入り口に鎮座する古い洗濯機は訴えてくる。

仄かに残っている良心が警鐘を鳴らす。
自分自身の為に足を運べと。


それでも、次の電話には出ないつもりだ。

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