重そうで軽い、遊びと学びの寄り道だらけの人生紹介から... ②
大きな変革期
・山での事故
仕事をしながらもバリバリと山に登り、キャンプ活動・自然観察会と余暇も充実していたある日。
沢登りに数人の友人と出かけ、登り終わっての下山途中、だれかのヘルメットが転がり、私が取ってあげると手を出して…
次のぼんやりした記憶はベッドの上に何でここにいるのだろうと思っている自分だった。
転がったヘルメットの代わりに、私の方が山の斜面を60mも転がり、頭蓋骨骨折・脳挫傷・全身打撲の瀕死の状態でベッドに縛り付けられる破目になったらしい。
らしいというのは、その前後の記憶が全く消えてしまっていて、何も思い出せない部分がかなりあるからだ。思い出さない方が良いのかもしれない。
2週間意識が無く、両親は葬式の算段をした方が良いと言われた頃、意識は戻ったけれど、話せず歩けずぼーっとしているだけ。
不幸中の幸いの一つは、大学時代夢中になってやっていた少林寺拳法の受け身に助けられ、頭以外の身体には骨折が無くて動けたことだった。
そして、私が転がって落ちた所に、救助隊が練習に入っていて、すぐに診療所に運んでもらえたこと。
また、その山の診療所から、手術のために東京の脳外科にヘリコプターですぐに運んでもらえたこと。
その上、抜け殻のようになっている私に息を吹きこもうと、元看護士だった母がリハビリのために色々な刺激を与えてくれたこと。
後から教えてもらった、私に新たな生を与えてくれた、偶然に繋がった幸運のかけらのピースたちは、たぶん神様からの贈り物だろう。
外傷が癒えるとボーっとした頭を抱えつつ、両親宅に戻って周囲をウロウロすることが社会復帰の第一歩。
ウロウロしながら、やっとのことで自分の好きなケーキを家にお土産用に買って帰れた時は、涙が出るほどうれしかった。それまで体力といろいろな機会や出会いに恵まれてきたためか、こんなことに嬉しさを感じることができるとは思っていなかった。否、私が小さなことを見落としてきたのかもしれない。
そんな空っぽの頭と心を埋め戻すように、友人・知人たちが私が好みそうなあちこちの機会に連れ戻してくれたことが、2度目の人生の行き先の方向性を考える土台に繋がった。
その一つが、川崎の教会での在日韓国人社会に見られる差別の実態の講演.
韓国人牧師が語った差別の実態を聞き、問題はその事実をすぐ側にいる日本人が関心を持たずにその事実を知らないことだと言われた時、思わず涙が頬を伝ってしまった。中・高と横浜の中心部に近い学校に通い、登下校でチマチョゴリの制服を着た生徒たちの姿を目にしながら、その背景に目を向けようとしなかったことの図星を指されたからだろう。
二つ目が故宇井先生の東大自主講座。自分が環境問題に関心を持った原点のような話題を、わかりやすくいろいろな事例を交えて提供してもらったことで自分が何に疑問を感じて、何をわかりたいと思っていたのかが蘇ってきた。識字率の低いインドの村で、ダムに沈められそうな村を救うための情報を演劇で広めて行ったという事例を聞き、環境という言葉の裏にある社会の差に目を向けることの深さに心を奪われた。
そして、三つ目に丹沢の山歩き。山から落ちて重傷を負ったにもかかわらず、懲りない私は体調を取り戻すためにも友人たちと軽い山歩きを始めた。両親が拾った命だし、同じ間違いは許されないけれど、今までできたことができるように乗り越えて行けと後押しをしてくれたことも大きい。
登山者が登る丹沢山塊の赤色のローム層の山道を歩いていた時、ふと山が血を流しているように思えてきた。恐らく、自分の弱っている心の状態が促した思いだろうけれど、なぜか無性に、赤い山道が胸にひっかかること、見てこなかったことそして知ろうとしなかったことを探りたくなった。
・学びと向き合う
事故を起こして空っぽになり、そこから這い上がろうとした時、何かを頭に入れたいという気持ちは自然の成り行きかも知れない。ただ、それに世代的なものも加わったかもしれない。ちょうど、仕事上の行き詰まり、発展性の無さなどに漠然とした不安を感じて、新たな人生設計に足を踏み出さなければと感じ始めていた頃だった。
リハビリの甲斐もあってかなり記憶が戻ったけれど、欠落してしまった記憶や機能もあって、どっちにしても仕事を変えざるを得ない。どうしようとウダウダしていたら、割合関心の似ていた後輩が自分の進学した大学院情報を送ってくれた。
”環境の違いに応じて、そこに住む人々の仕事・生活・社会にどう変化が表れてくるかをフィールドワークをして解明する”といったその研究室の中身に、いろいろなことの裏に潜むものを学びたいと思っていた気持ちが煽られてしまう。2度目の人生をいただいたといった思いも強く、後先も、緩んでしまった頭のことも考えず、受験に挑むことに!
久しぶりの受験勉強に約1年を費やし、奇跡的に合格できたのも、何らかの縁があって、その当時は最強の運に恵まれていたからかもしれない。
真っ新な状態で、学びと向き合うことだけを考えて入った大学院。すぐ側に寝る場所だけのアパートを借りて、授業・研究室・アパートを往復する生活に没頭できたのも、働いていた時の貯金と奨学金がもらえたからだが、大学の回りには興味を搔き立てるようなものがほとんどなかったのも幸いだった。
その代わりに、多くの刺激的な同級生に囲まれ、授業・研究室・アパートという狭い社会の中で、他の人たちとの付き合いを息抜きにとことん学びにのめり込めた。環境科学の大学院で様々に専門が違う学生が集っていて、彼らからの専門の話を聞くだけでも、本当に刺激になり脳が活性化された。ここで初めて、自分の知りたいモヤモヤを解消する学び方みたいなものが体験できたように思う。
わが研究室では、それぞれが自分の関心に沿ったフィールドを持って、フィールドワークを通してその社会の特徴を明らかにしていく。フィールドワークで得たことを持ち帰り、その報告に様々なコメントをもらうことで、頭の中の雑然とした情報が整理されて行く。時にはそんなゼミの時間は深夜を越すことも。
バラバラのフィールドを持つ先輩の話を聞きつつ、私はどこで何を見たいのだろうと漠然と思っていた脳裏に浮かんだのは、宇井先生の自主講座で聞いたインドの話だった。
低開発・多様性と日本とは真逆みたいな社会環境に身を晒してみたいと思いだし、英語力、経済力、知識力などすっ飛ばして、単純にインドみたいな国をフィールドにしてみたいと無謀な計画を担当教官に申し出ると…
外国でのフィールドワークを成功させるには、先ずはその社会が愛せるかどうかが要だから、先ず行って確かめてこいと言うお達し。
2年間のマスターであっても、納得する情報を引き出すためのフィールドワークを重ねて、それなりの修論を出さなければならないので、あきらめることを促すための先生なりの忠告だったに違いない。
それにもかかわらず、それもそうだと、親友を誘ってインドへ1週間の観光旅行を夏休みに決行し、当然のごとくその匂い・音・人・環境・雰囲気に惹きつけられて戻り、インドをフィールドにしたいと宣言した。
アフリカがフィールドの先生からのO.K.は直ぐに出たけれど、言葉、旅費、滞在先、知り合い…、夢だけでは乗り越えられない問題山積。
なはずなのに、計画変更は考えずに、とにかく問題と思われることを少しずつ減らしていこうと、馬車馬のように短期間にできる事に挑戦し始めた。
先ずは、フィールドワークのための資金と時間を得るために、海外留学のための奨学金を得ることを思いつき、辿り着いた留学情報センターで得た情報を頼りに秋から新年にかけ、奨学金試験を片っ端から受けまくった。
試験に必須の英語対策として、帰国子女だった友人に想定問答集や文章を作ってもらったのは付け焼刃にすぎず、社会を扱う学問的知識も乏しいので、当たり前のごとく負け戦続き。特に大本命のインド政府の奨学金の時には、インタビューでけっこうフランクに話せながらも、試験官の出身校のJawaharlar Nehruという名前がだれのものなのかが堪えられないという、大失点を犯していた。
もうだめだと、春休みに観光ビザでフィールドワークのヒントでも得ようとインドに行く予定を立て、観光ビザを申請。そして、研究室の人たちに開いてもらった壮行会も終わっていざ出陣と思っていた矢先、留学先が決まったというニュースがインド大使館から入り、急遽観光ビザを留学生ビザに書き換えてもらうことに!
まるで棚ぼたのように2年間のインド政府の奨学生という身分が下りてきて、夏から始まるインドの大学院でのマスターコースに備え、休学届を出しアパートを借りてくれる人を探し、インド情報を頭に詰め込み...とバタバタ日本での大学院の1年目は終わってしまった。
・新たな出会い
ニューデリーで始まる国費留学生としての生活への期待と不安と、寝袋・タイプライターなど持てるだけのものを一杯抱えて降り立った空港。
インド政府の国費留学生ということもあって、係の人が迎えに来てくれたので、インド生活をスムーズに始めることができた。この奨学金は、その当時は英語能力は教員からの証明書で代用でき、2年間滞在して与えられたコース(修士課程)を修了すること以外何も義務もなく、授業料・学生寮・3食の食費全て無償、その上少しばかりの研究費も出るという優れもの。もちろん日本では生活していける金額ではなかったけれど、物価に呼応してインドでは不自由なく勉強に没頭できる金額だった。
迎えに来てくれた人に、学校に着く前に買い物を済ませて行こうと雑貨屋に連れていかれ、大きいのと小さなバケツ、電球、スプーンを買わされたのだが、その意味がよくわからないほど、インド社会について無知だった。
首都にある近代インド建国の父の名を冠する大学院大学の構内を案内してもらい、女子寮のわが部屋に辿り着き、初めて買わされたものの意味が分かる。
開けた部屋には、簡単なベッドの枠組みと机しかない。まず、電球を取り付け、幸いにも寝袋があったので、寝具なしでも助かった。このときほど、野外を歩き回った経験が生きたことはない。インド人の学生たちは、トラックに寝具一式・衣服…満載でやってきた。
水は一日に1時間ずつの2回しか出ないので、水浴びなどのために水をためておく大きなバケツ、そしてトイレでトイレットペーパーの代わりをする水を汲むための小さなバケツ、原則右手で食べる食事になれない外国人学生が使うマイスプーン、こういったものがなければ日常が回っていかないのだ。
生活を整え、研究科に連絡を入れ日常が回り始め、授業に出るようになったが、周りの人たちが話す英語が全く聞き取れず、多量のリーディングリストを前に押しつぶされそうになった。ふと、隣室のアメリカ人留学生に英語が使い物にならないと愚痴をこぼすと、なんと”私も彼らの英語が良くわからないから慣れるしかない”と慰めてくれ、それからは会話の相手になり、一緒に旅行するほど仲良くなれたことが、勉強を支えてくれた。
2年ちょっとのフィールドワークを含む濃密なインド滞在は、様々な出会いや体験に満ち溢れているけれど、それだけで一つの本のようになってしまうので、ここでは後半の人生に繋がる、インド自体とはあまり関係のない大きな出会いの事を紹介する。
飛行機の中の出会い
留学生活1年が過ぎようとしている時、体調不良になったのと休学を更新しなければならないこともあって、日本に一時帰国。
病院に入院し体調を回復させ、事務的な事をかたずけてから、後半の留学生活には直接戻らず、用事があるデンマークに足を延ばしてからニューデリーに戻ることにしたことが、その後の人生を大きく揺さぶる出会いをもたらした。
一番安かった成田―カラチ―ドバイ―デンマークというチケットとその後の1年に必要と思えるいろいろなものを詰め込んだリュックと共に、カラチで乗り換えた便でスウェーデンに帰るという男性と隣り合う。
そして、読まなければならない課題を抱えつつ、南回りの長旅の中でその男性に聞いた彼の半生の話に惹きこまれてしまうことに…
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フィンランドのタンペレという第2の都市近くの小さな農村地帯の貧しい林業農家に生まれ育った彼は、小さい頃から自分たちで農地を開拓し家を建てるような形で農・林業を手伝い、農業に学問は必要ないという頑固な父親の方針もあって、義務教育の7年生を終えると(その当時のフィンランドではそれで社会に出られたらしい)、すぐに働き始めた。
今やいろいろな統計でトップに躍り出るフィンランドだが、彼の幼少期はまだまだ戦後の貧しさの漂う時期で、彼の家に電気が通じるようになったのは10歳前後だったほど。
いくつかの工場で働き方向転換を考え、周囲にアメリカ・カナダへ移住していたこともあって、フロンティアを求めてカナダへ移住し、銅の鉱山とアラスカ近くでの木こりとして働く。
肉体労働で一生を送ることに疑問を感じ、子どもが好きなこともあり、一念発起し学校の先生になることを目指してフィンランドに戻ってくると、新しくなった教育課程で学校の先生になるには時間がかかりすぎることが判明。義務教育の中でスウェーデン語を学んでいなかったけれど、教員資格を取る期間が短く、奨学金が得やすく、仕事を得る機会が多かったスウェーデンに移住。そこで、工場・パン屋・介護などいろいろな仕事をしながら、高校・大学で学び、ようやく保育士のコースを終え、これから保育士として働き始める前の息抜きのフィリンピン旅行を終えて、ストックホルムに帰る飛行機なんだ…
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といった彼の人生やり直しの話を聞いて、それまで全く知らなかったやり直しの機会の大きく広がっている北欧社会というものに強く引き付けられてしまった。その対極にあるようなインド社会で勉強していたからかもしれない。
デンマークでの用事を済ませ、戻ってきたニューデリーでの後半の留学生活に、彼との郵便のやり取りという楽しみが加わる。寮に電話や携帯もない時代だったので、楽しみは郵便のみ。初めてできたヨーロッパの友人の手紙に書かれている、知らない社会の情報は、大いに好奇心をくすぐった。
マスターコースも周囲の手助けもあって何とかこなし、その間に本来の目的だったフィールドワークも終えて、休学していた日本の大学院に戻る日が近づいてきた。
日本に戻ったらなかなか飛び出してくるのも難しくなるだろうと、気にかかりだしたヨーロッパ社会を観察させてもらうために、ストックホルムに住む唯一の友人の彼に連絡し、夏休みに戻ったフィンランド生活を体験したことが人生の歯車を大きく回転させる結果になってしまう。
連れて行ってもらった彼の実家は、タンペレから車で1時間半ほど離れた所で、バスは1日朝・夕の2往復しかなく、主要道路から家まで30分歩き、15ヘクタールの敷地内の湖沿いに家を自分たちで作っていった場所だった。
その場所での自給自足に近い生活を送りつつ、機械をうまく利用しながら生活に関わる多くのものを自分たちで作り出していく日常に圧倒されてしまう。
インドでも、何もない中でそこにあるものを活かして日々の生活を維持している姿(例:牛の姿を燃料にしたり、バナナの葉っぱを皿にして使う…)を見て、自分の生活能力が低くなっていることを自覚したけれど、フィンランドでも自分で木を切ってそれをどう使うか、木の実や皮をどう採って、どう処理して、どう使うかといった生活するための活きた知識をあまり持っていないことに愕然としてしまったのだ。
農学・畜産の知識はあるけれど、あまり使い物にならない!
開発問題の研究者になろうという漠然とした思いは、活きた知識の上に成り立つ日常に接して崩れ去ってしまい、新たな出会いとなった北欧社会へ舵を切ることになった。
スウェーデン社会との邂逅は続きに…