システム回って、社会回らず ―人の世は生きにくい―
先月、プロレスラーであり芸能人でもある女性が自ら命を絶った。また、先日は男性俳優が自宅で亡くなっているのが発見された。その原因は、完全に特定されているところではないが、前者はSNSおける誹謗中傷などの書き込みが原因とみられている。誹謗中傷を受けて、平静でいられる人の方が少ない。多くの人は心理的なダメージを受ける。
個人の自由ではない!?
先日、別のことでインターネットで資料を探していたところ、内閣府から出ているもので興味深いデータを見かけた。それは「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ」の質問に対し、日本人だけが断トツで「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」と答えているものである。
一見、日本人が真っ当なようにも思える。ただ、この設問を論理学の対偶に当てはめていえば、『他人に迷惑をかけるのであれば、何をしようと個人の自由ではない』とも言える。
SNSでの罵詈雑言
SNSの議論に話を戻すと、この誹謗中傷の書き込み内容を観てみるとその多くは、「発言や行為に不快感を覚えたから」「不倫はサイテーの行為だから」「自分と意見が違うから」「見ているだけで不快だから」など、加害者側は「迷惑をかけられた」という心理が働いている。
「人に迷惑をかけるような人は、そのまま自由にしておくわけにはいかない」、つまり自分に不快感を与えた相手を攻撃しなければという心理状態に陥り、罵詈雑言を浴びせる。加害者は、正しいことをしていると思っている。自分自身が正義であると思っている。だから、この連鎖はそう簡単には収まることはない。
「迷惑がかかっている」か「迷惑がかかっていないか」は、受け取る側の主観によるところが大きい。そうなったとき、社会が不寛容であれば、目立つものや出る杭を見つけるたびに、「不快に感じた」と言ってその人の自由を奪うことが正当化される世の中になる。「電車の中で泣いている赤ちゃんがうるさかった」「車いすがのろくて邪魔だった」「あやしてもあやしても泣き止まなかった」。
こんな社会だったらいいな
私が思い描く理想の社会は、多様性が認められる社会である。多様性が認められるとは、すなわち他者に寛容であるということである。他者に寛容でいられる人が増える環境を作るためには、どのような手立てができるだろうか。「寛容」な人の、その「寛容さ」は何に由来するのだろいうか。
誰しも、「不寛容でいたい」と思う人はいない。人が「寛容」でなくなってしまう原因は何だろう。もちろん「寛容」なだけでは、システムが回らないことも知っている。しかし、この社会の状況を鑑みると、このままでは生きにくい社会になってしまうのではないかとも思う。
システム(制度・決まり)を回すことを目的としてしまって、「不寛容」であることを正当化してはいないか?そもそもシステムが間違っている場合もあるのではないか?
ただ言うことを聞く素直な子を「いい子」としていた高度経済成長期の子ども像から、社会という荒野をしなやかに生きていける新しい子ども像をイメージしながら、あるべき教育の姿を探っていきたい。
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