進化と歴史とミームの話
今日は前に予定してた通り、生物の進化と人類の歴史が連続してつながってるって話をしようかな。
でも何を書けばいいのやら。
人類の歴史か。。。
人類の歴史って、その本質はこれですなんて一言で言えるほど簡単なものじゃないんだろう。
経済とか宗教とか身分とか戦争とか、歴史を動かすファクターは本当にたくさんだ。
だから何をテーマにして生物の進化と歴史を絡めようかちょっと迷う。。。
進化は突然変異によって引き起こされる。
と言っても、1つ1つの突然変異はたいていの場合それほど大きな変化をその個体に与えない。
変化がなく安定しているように見えるその間に無数の変異が集団の中に蓄積されていき、かといって互いに混じることもないまま長い時が流れていく。
そうしていると、ある日いくつかの変異が1つの個体の中で交わるときがある。
ある変異を持った母親とまた別の変異を持った父親の子供として、何か意味のある組み合わせを持った子供が生まれるのだ。
それは偶然によるものかもしれないし、環境の変化に伴うある種のメカニズムによるものかもしれない。
もう少し遺伝学的な表現をすると、ある変異遺伝子は環境の中でどれだけ生存に有利に働くかに従って確率的に集団内での割合を変化させていき、その割合が増加していくと別の変異遺伝子と出会う、みたいな感じかな。
変異の組み合わせには良いものも悪いものもあるけれど、その環境にうまくハマる組み合わせを持った子供は多くの子を成し、その変異遺伝子を次代に残す。
もしかするとその特別な組み合わせを持った個体は、袋小路のように見えた環境のどこかに活路を見出して、特殊な環境へと生き延びるかもしれない。
歴史でも1人の人物によって大きな偉業が成し遂げられることがあるけれど、それは能力や思想やその他いくつもの要素が1人の人間の中で組み合わさって、それが適切な環境とタイミングで発揮されたということを意味しているんじゃないかと思う。
そんな人のことを歴史では偉人と呼ぶんだろう。
一方で、そんな変異遺伝子の組み合わせが生まれるときにはすでに集団内ではその変異の割合はそれなりに高まっていて、もしその特別な子供が生まれていなかったとしても、そういった子供が生まれてくる土壌はすでに整っているとも言える。
歴史上でも、この人物が成し遂げた偉業はすごく大きいけれども、この人がいなかったとしても世の中はそういった向きに進んでいただろう、なんて言われていることがいくつもある。
これは、少数の人物によるものすごい偉業や大きな決断だけが歴史を動してきたわけではないということなのだろう。
歴史上の人物が成したあらゆる戦での勝利は、それを率いる将の天才的な手腕によるものもあるのだろうけれど、その戦略を可能とした財や技術の蓄積によるところが大きいと思う。
かつての日本が大敗を喫した太平洋戦争について言えば、敵味方の戦力差を見誤った首脳陣が引き起こしたという見方もあるけれど、経済的な困窮に活路を見いだせなかった民衆がそこへ向かわせたという側面が大きかったんじゃないかと思っている。
多くの人々が国家の意思決定に介入できなかった時代でさえも、経済活動だったり、当時当たり前だった価値観とかいったものは個人の集合である民衆によって形成されていて、それが歴史の大きな流れを生み出してきたんじゃないかな。
そんな場合も考えると、何らかの意味をもった変異の組み合わせが1匹の個体の中だけで成立するだけじゃ進化と言うには足りなくて、その組み合わせが集団の一定以上を占めるようにならないと進化とは言えないということなのかもしれない。
そんな感じで生物の進化を人類の歴史に例えたり人類の歴史を進化に例えたりしてみたけれど、結局のところ僕が思っているのは、生物の進化が遺伝子の変異の集積によって起こるのと同じように、人類の歴史は個々人の思想、価値観、技術その他もろもろの概念が集積することで進んでいくんじゃないかということだ。
生物の進化は、ある生物の中で突然変異が起こり、集団の中でその変異が蓄積され、そういった変異がいくつも組み合わさり、それが環境とうまくマッチングしたときに起こる。
それと同じように、人類の歴史も、思想・技術・社会制度のアイディアなんかが新しく生まれ、それが人々の間で共有されながら集団の中に蓄積され、その中のいくつかが誰か個人の中で組み合わさって、それがその時の社会の状態とマッチングしたときに大きな動きが現れるんじゃないかと思うのだ。
動物行動学者リチャード・ドーキンスは、そういった人から人へとコピーされていく文化的な情報のことを、親から子へとコピーされる遺伝子(gene:ジーン)に対応させてミーム(meme)と名付けた。
さっき書いたことをこのジーンとミームで言い直すと、進化のメカニズムにおいて遺伝子(ジーン)が果たしていた役割をミームで置き換えたものが人類の歴史なんじゃないか、ということだ。
ミームは遺伝子と違って次の世代まで待たずとも他の個体との間にコピーを発生させられるので、それによって引き起こされる人類の歴史は生物の進化よりもはるかに速いスピードで進んできた。
特に言葉という大量のミームの共有を可能にするツールを手に入れてからは、たった数万年の間で食事や住処などの生活様式、活動範囲、社会の形態などなど、驚くほどの変化が起きた。
縄文時代が来るもっと前から人は遺伝的にほとんど変化しておらず、この全く異なる生活を送る両者の違う点は過去の人々がどれだけのものを残して来たかということに尽きる。
数万年という期間は進化的スケールで見るとすごく短い期間で、遺伝的な変化はほとんど起きないのだけれど、その間に起きた生態的な変化は他の生物における別種間の違いと比べてもかなり大きいと言えるんじゃないだろうか。
そういう意味では、ヒトは遺伝子の変異がなくともミームの変異によって進化できる生物だって言えるかもしれない。
実を言うと、人の歴史が遺伝子の影響から完全に切り離されているかというとそうとまでは言えない。
偉業を成す人物にはその知恵や思想に加え、思考力や闘争心、共感能力といった遺伝子に強く影響を受ける性質までをも組み合わせとして持っている必要があっただろう。
まあともかく、人類の歴史と生物の進化は、遺伝子とミームという複製子の違いこそあるものの、それらは同じメカニズムで起こっていて、実はそれらが切り替わるタイミングも徐々に比重が変わっていっていて継ぎ目がない。
だから生物の進化と人類の歴史が連続してつながっている、とそんなお話でした。
まあそんなわけで宇宙・生物の進化・人類の歴史というビッグヒストリーの継ぎ目をなくそうというので書いた内容は一応ここで一区切りついたって言えるのかな。
でも生物の進化と人類の歴史の継ぎ目をなくすという意味では、今回のに加えて初期人類の進化の歴史についても書かなきゃ片手落ちって気もする。
まあそれについては、前に買った人類史の本もまだ読み終わってないしまた今度書こうかな。
次は、昨日書き終わんなかったんで上げれなかったから、他のところでちょっと書いた内容をちょっと書き直したやつとあとちょっと短い話を何か考えて2つ連続で上げれたらいいな。
あと、今度福井の恐竜博物館に今度行くことにしたから恐竜のことを何か調べて上げていこうかな。
以上。