消えた鍵 #シロクマ文芸部
消えた鍵はもう見つからない。でも、どこかに存在することは確かだ。それが心の中だけであっても。
一回り年上の兄が初めて恋人を連れてきたのは、わたしが中学生のころだった。当時兄は医学部の学生で東京に住んでいたが、夏休みで帰省の際、彼女を両親に紹介しようと思ったらしい。
その恋人栄子さんは、東北人らしく色白でもの静か、にっこり笑うと少し縦長のえくぼができた。庭の片隅の白いムクゲの花のようだった。
私の家は代々続いた医者でかなり広い庭があったから、二人で散歩する姿が
木々の間から見え隠れするのを、私は二階の窓からそっと眺めていた。大好きなお兄ちゃんが、もう他の人のものになったんだ、と・・・
二人きりの兄妹だったから、わたしたちは子供のころからよく一緒に遊んだ。ボール投げ、川泳ぎ、兄は物静かで優しく、年の離れた妹によく付き合ってくれた。近所の男の子が遊びに来て、私の人形をもって逃げたとき
「ダメじゃないか、とっちゃぁ!」
と、大声で怒鳴り、わたしは初めて知った兄の一面に驚いたものだった。
兄は栄子さんと結婚して幸せになれる、と思ったのに、思わぬ展開になった。栄子さんが大病をしたことがあったとわかり、祖父母が大反対したのだ。病院を継ぐのに体の弱い嫁では務まらない、と。そのあげく祖父が栄子さんの親に断りの手紙まで送り、交際は無かったものになった。
5年後国家試験に合格し、兄は祖父母のお眼鏡にかなった女性と見合いをし、無事結婚が決まった。お相手の浩子さんはふっくらとした体つきで
毎年玄関わきに咲き誇る牡丹の花のようだった。私にも優しくしてくれたが
「貴方はお兄さんと仲良しだったのね」と言う言葉に、小さな棘のようなものを感じて好きになれなかった。
医局に勤め始めた兄は、結婚後しばらくは東京でマンション住まいをすることになった。
ある日、高校から帰ったわたしは、居間の椅子に見慣れない鍵を見つけた。銀色に光る鍵が二本、寄り添うようにわっかで繋がれている。兄の住むマンションの鍵だ、とピンときた。わたしはその鍵を掴むと洗面所の排水穴にぽん、と落とした。そしてそっと家を出、30分ほど駅前の本屋で時間をつぶして帰った。
家では鍵がない、と大騒ぎになっていた。浩子さんは「確かに居間に置いたのに」と繰り返すばかり、アリバイのあるわたしは疑われることもなく、鍵は取り換えることで決着がついた。
排水穴のなかの鍵はどうなっただろう?下水まで流れていっただろうか。まだそっと闇の底に潜んでいるだろうか。いずれにしても、わたしの心に今でも引っかかったまま存在している、ということは確かだ。
おわり
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