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ガラスの手 #シロクマ文芸部

「ガラスの手」とは仕事帰りにふと見つけたスナックの名前だ。
その日初めて通りかかったアーケード街は、ほとんどの店がシャッターをおろし、シンと静まり巨大なヘビの抜け殻の中に迷い込んだようだった。庭の片隅で忘れられたように風にふるえている抜け殻……。そんな通りの暗い横道に白いネオンが見えた。
 「ガラスの手」
 スナックらしいが、変わった名前だ。光に吸いよせられるように、その店のドアを押した。
 「いらっしゃい!」
 おもいがけない明るい声だった。カウンターに椅子が八個ほどの店内は薄暗く、かすかに芳香剤の香がした。カウンターの中に一人の女がたっていた。紫色のシンプルなワンピース、こんなスナックの女性にしては地味だ。

「ごめんなさい。今夜はチーフが休みで、わたし一人なの。水割りで いいかしら?」
「ああ、それでいい。それにしても変わった名前だね、『ガラスの手』なんて」
「ええ、チーフがベネチアで買ってきたのよ。ほらあれ」

ウイスキーの瓶のならんだ棚の片隅に、ガラスでつくられた手が飾られていた。手首から上の柔らかく指を曲げたポーズの手。ほぼ実物大だから、
ベネチアングラスだったらかなりの値段だっただろう。

「へえ、ベネチアねぇ」
「お客さん行ったことあるの?」
「ああ、一度だけね。パック旅行だけど」
「まぁ、嬉しい、ベネチア知っているお客さんなんて。ここもね、ほらすぐ横が川なの。ベネチアみたいでしょ」
ルミと名乗った女性はふふと笑った。

「ガラスの手」に手招きされたように、週に一度、いや、二度、半透明のガラスのドアを押すようになった。
ルミには水商売の女性独特の、「つや」というようなものがあった。鎖骨がのぞくワンピース。ほんのすこしの媚びを含んだ笑顔と、ほどよいなれなれしさ……。どこまで計算されたものかはわからないが、相手をいつのまにか無防備にさせてしまう。ハーフではないかと思わせる、彫りの深い顔も魅力的だった。

三カ月ほど通いすっかりなじみになった。店の外まで見送ってくれるルミの腰をそっとひきよせると、痩せた身体は僕の両腕の中にすっぽりとおさまった。わずかにもれる灯をうけて、唇がとろりと濡れたように光り、思わず唇を重ねた。
「今度二人だけで会おう」
「ええいいわ」
心躍る約束をかわした。

ところが数日後「ガラスの手」を訪れてみると、「閉店」の張り紙が・・・僕は店の横の堤防を駆け上がった。
暗い夜の川を見渡すと、はるか下流をいく船に紫色の服のルミの姿が見えたように思った。
「ルミ!」
全速力で堤防を走り始めた。
僕の前の広がる空に、あの「ガラスの手」が「バイバイ」といっているように浮かんで揺れた。

           おわり

小牧さんの企画に参加させていただきます。
小牧さん、お手数おかけしますがよろしくお願いいたします。

ガラスの手、そのものを書こうとしましたが、いいアイデアが浮かばず
こんなお話になりました。ベネチア一度行ったことがありますが、あの赤と金の伝統的グラスは高くてとても買えなかったです。
このスナックのチーフが、ベネチアに行ったのかは謎のままです。

#シロクマ文芸部



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