心に残るあのエピソードをあなたに
幻想的で美しい絵とストーリーを発表されているKeigoMさんから、バトンを受けとりました。
私のエピソードは自分の黒歴史ともいえる、つらい記憶ですが、聴いて下さい。
優等生の反乱
中学校は水田を取り囲む丘の途中にあった。丘に登る坂は急で、入学したばかりのころは、途中で一度休み、はずんだ息を整えなければならなかった。坂を上り詰めると右側に丸太をわたした数段の階段があり、古びた茶色の瓦葺きの校舎がひっそりと立っていた。
一学年三クラスずつしかいない生徒はみんな同じ小学校出身で、おさな馴染みのようなものだった。ほとんどが農家の子供だったが、私は勤め人の子でなにか異質とみられ、小学校時代から物を隠されたり、ボールをぶつけられたりした。すぐ泣きべそをかくので、それも面白がられたらしかった。
私は勉強熱心だった。教科書を暗記しているときは孤独感を忘れることができ、「勉強ができる」と言われることだけが小さな誇りだったから。成績優秀者として、いつも廊下に名前が張り出され、それがますます仲間外れの原因になった。
クラス委員や、生徒会役員の候補にいつも選ばれた。立候補する人がいないと、クラスの誰かが手を挙げ、当然のように私の名前をあげた。その頃は、女子の名前を言うことなど稀な思春期の男子生徒も、この時ばかりは自分がその厄介な役から逃れるために、堂々と「チズさんがいい」と言った。私は絶望感でじんとしびれるような頭で、同級生が私の名前をつげる口元を、ぼんやりと見ていた。勇気を奮い起こして「できません」と答えても
多数決で押し切られることはわかっていた。
学年が進むにつれ、大役はますますのしかかって来た。同級生のお父さんのお葬式、研究発表会の出場、生徒会長、音楽部長、それらの大役をけなげにもこなそうとした。毎週の朝礼の時は台の上に震える足を踏みしめて立ち、司会をし、校歌の指揮をとった。市の大会に出場する運動部があれば、激励の演説をした。広い赤土のグランドは薄暗い松林に続いていた。そのかたすみに集まった生徒たちの上を、私の声は頼りなく散って行った。届くのか不安で、私はできるだけマイクを口に近づけて話した。
卒業式に、私は答辞を読むことになった。原稿を何度も何度も書き直し、くるくると巻いた和紙に清書した。放課後は毎日読む練習をした。先生の前で、何度も読んで感動などしなくなってしまった文章を、気持ちを込めて読まなければならなかった。
卒業式の日、私は風邪をひいて鼻がつまっていた。熱はなかったから、休むほどではなかったが、休むことに決め、ぐずぐずと布団の中にもぐったままでいた。
母が卒業式に出てくれ、私の卒業証書をもらってきた。そして
「答辞は副会長の山田君がちゃんと読んでくれたよ」と言った。
わたしの胸の中にわけのわからない解放感が広がった。
「わたしは、けばげな優等生なんかじゃない!」
卒業式をさぼってしまったというほんの少しの後悔の念は、もうすっかり消えてしまっていた。
おわり
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さて、高校生になったら、周りが優秀で私はすっかり沈み、こんな孤独は
なくなりました。one of them になれたのは嬉しかったですね~
中学生時代はとてもつらかったのですが、いろいろ経験を積んだ今から思うと、たいしたことないですね。
山田君とわたしは同じ高校に合格し、大学は別でしたが大学時代何回か
デートし、プロポーズもされた、のだから、人間わからないものです。
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さて、保護犬おかづちゃんとの日常を、ユーモラスに、時には感動的に
発表されている、歌月という俳号ももつ、さいとうT長さんにバトンをお渡しします。
ご病気で大変な時期もあったのに、見事乗り越え、そのサバサバした口調や、軽妙な俳句で魅力いっぱいの記事を書かれる方です。お楽しみに!
チェーンナ―さん、素晴らしい企画に参加させていただき、ありがとうございます。お世話をおかけしますが、よろしくお願いいたします。🙇