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ロンドンでの出会い

 ロンドンは4回ほど訪れた。父のお気に入りの街だったからだ。大英博物館、ロンドン塔、バッキンガム宮殿、タワーブリッジ、ハイドパーク、ウエストミンスター寺院、有名な箇所はすべて行ったが、妙に記憶に引っ掛かって忘れられない場所がある。

 ロンドンの銀座通りともいえるリージェント通りから、少し横道にはいったところに、Sという日本料理店がある。引き戸の入り口をはいると、右手に順番待ちの人が座るための籐椅子がいくつかならび、壁には、1m四方くらいの写真が飾ってある。小錦がつっぱりをしているカラー写真だ。前傾した、こんなにも太れるものかと感心するほどの上半身、その重みを支えているうちに、上半身にめり込んでしまったような短い足、ギョロリとした目、わたしにはちょっとなつかしい絵柄だった。

 髷を結った相撲とりはいかにも日本的で、イギリスではうけるのだろう。その奥はレジになっていて、さらにその奥が客席だ。左側はすしカウンターで、高いスツールに、イギリス人が座っていて、あ、ここはロンドンだ、とあらためて意識する。

 「いらっしゃいませ!」と現れるのは、グレイのダブルの背広を着た日本人の中年男性。その顔を見るたび、ドキリとした。そう、俳優のだれかにそっくりなのだ。中肉中背、ふんわりと伸びた長めの髪、少し頬がこけ、ほりの深い顔……。神経質で傷つきやすいタイプを演じていたが、そのイメージにピッタリあっていた。セリフを言う前に、ちょっととまどったように口のまわりを微妙にふるわすところが、気弱な印象で、劇画に登場する美青年タイプだった。演技よりルックスに心ひかれるといったような……。

 日本に帰ってから、検索してわかった。広岡瞬という俳優だった。歌手の石野真子と離婚、そのあとイギリスにわたり、親戚の経営している日本料理店の店長をやっている、とあったからだ。古いドラマの再放送で見たのが記憶にあったのだ。

 次のロンドン訪問で、またSに行ってみると、広岡氏は健在だった。客に「いらっしゃいませ」と声はかけても、席に案内はせず、近くにいるウエイトレスに「3名様ご案内して」などと店長らしく指示をする。店内はかなり広く、テーブルが30はあるだろう。カツ丼、天丼から、刺し身もりあわせ、焼き鳥、ざるそば、おにぎりなど、メニューも豊富だ。

 値段が国内の倍近くすることをのぞけば日本料理を充分楽しめる。夜はにぎわうが、開店したばかりの時間にいくと、チェックのベストを着た、日本人のウエイトレスやウエイターが6.7人、所在なげに壁際に立っている。広岡氏もさすがに退屈らしく、時々奥の調理場に引っ込こむ。奥の席にすわっていると、切れ切れに声が聞こえてくるから、雑談でもしているのだろう。しかし再び登場するときは、店長の顔になっていて、店内に鋭い目を走らせ、ダブルのスーツの前をただしながら入り口に向って歩き出す。こけた頬がいっそうひきしまって見えた。

 ロンドンで、日本食がなつかしくなると行ったので、4・5回訪れただろうか。その夜もお金を払って出ようとすると、彼がいかにもいいなれたセリフといったふうに「ありがとうございました!」と声をかけてきた。

 「あの、広岡瞬さんですよね」

 わたしは、声をかける勇気がなく、とまどったままの無愛想な顔を彼にチラリとむけただけで、店を出た。「ごちそうさま」くらい言うべきだった、と後悔したのは、リージェント通りをだいぶ歩いてからだった。

               おわり     

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広岡瞬さん

調べてみたら、このお店はもう閉店していると分かりました。広岡氏も引退されたとか、ロンドンでお元気でいられますように・・・

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チズ
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